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『笑いと治癒力――生への意欲』ノ-マン・カズンズ/松田銑訳(岩波書店)

笑いと治癒力――生への意欲

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「圧倒的な生への意志と探究心、そして物語の陥穽」

前回のこのブログで取り上げたアーサー・フランク『傷ついた物語の語り手』で、「探求の物語」の一例として引用されていた本から1冊を選んでみたいと思います。(「探求の物語(the quest narrative)」というのは、病に際して、元通りの「回復(restitution)」を望みにくいときに、混乱から立ち上がり、苦しみつつも新しい生を探求する様を描く物語のことを指します。)


『サタデー・レヴュー』の編集者だったノーマン・カズンズは、ある日、膠原病に侵されます。この本では、そのときの著者の体験と(第1章「私の膠原病回復期」)、それがきっかけになった思索がエッセーとして収められています。


膠原病というのは、皮膚・筋・関節などの結合組織に炎症・変性が生じる疾患の総称です。免疫に関連すると言われていますが、原因ははっきりしていません。カズンズの場合は、最初は「何となく身体中がズキズキするような不快感」(p.2)から始まって、それから1週間たたないうちに、頸も腕も手も指も足も、動かすのが難しくなります。


カズンズは、親友である主治医ヒッツィグに全快の望みはあるか、と尋ねました。ヒッツィグは、専門家のひとりが「この病気が全快する見込みは五百にひとつだ」と言った、とカズンズに包み隠さず打ち明けます。「そうヒッツィグ博士から聞いて、わたしは大いに考えさせられた。その時までわたしはどちらかと言えば、自分の病気のことはお医者まかせという態度だった。しかしこうなってみると、否が応でも、自分で何とかしなければならないという気になった」(p.6)。


このように決意したカズンズは、まず、医学誌に載っている研究を読み漁って、投薬されていた鎮痛剤が自分には有害ではないかと考えます。彼はその時「椎骨と、間接のほとんど全部が、まるでトラックに轢かれているように痛んで」おり(p.14)、大量の鎮痛剤を処方されていました。鎮痛剤をやめたら痛みに耐えられるか?彼は自問の末、こう答えます。痛みは、肉体が脳に向けて何か問題があると知らせてくれる信号であり、肉体的機能が回復してゆく過程の一部だ。まさに人体の魔術だと考えれば、我慢できるだろう。


鎮痛剤をやめる代わりに、彼は独自の方法を考案します。ひとつはビタミンCの大量投与で、もうひとつは、笑いによって積極的な情緒を引き起こすことです。これらは、いずれも医学誌の中で読んだ研究をヒントにしたとカズンズは述べていますが、当時としては(おそらくこんにちでも)突飛な考えに見えます。


カズンズは、この方法をヒッツィグに相談します。すると、この寛容な医師はカズンズの「生への意欲のなみなみならぬ強さがよくわかったと言い、一番大切なのはわたし(カズンズ)が自分の言ったことすべてに対する信念を失わぬことだとはげましてくれ」ます(p.16)。彼らは、病院を出てホテルの一室を借り、この型破りな計画を実行に移し、成功を収めます。


駆け足で紹介しましたが、いかがでしょうか。私は「なんてすごい人だろう!」と感嘆しました(というより、唖然としてしまいました)。病に直面して、ただ混乱するだけではなく、苦しみつつも新しい生を探求するという「探求の物語」(A.フランク)の例とされているのも分かるような気がします。


この本は、彼独自の方法のうち笑いに関する部分が、突出して有名になりました。この本の原題が"Anatomy of an Illness as Perceived by the Patient"(直訳風に訳せば『患者によって理解されたある病の詳細綿密な分析』)であるのに対して、『笑いと治癒力』という訳題があてられたことは、そうした事情によるのでしょう。そのせいもあってか、この本は「『笑えば治る』と喧伝している」という非難も受けました。しかし、この本の核心をなすメッセージは、笑いよりも、むしろ、生への強固な意志をもって、探求し、自分自身が主導権を握って病を生きる、ということにあると思います。


ただし、ここで注意が必要なことがあります。以前、講義の中でこの本を紹介して感想を求めたところ、「結局、本人のやる気次第で病気は治る、ということがよく分かりました」と述べた学生が何人もいたのです。これはどうやら、カズンズが、物語の最後には、仕事に復帰できるまで良くなっている軽快例であることと無関係ではないようです。つまり、カズンズの強い意志も、探究心も、主導権を握りつづけた自信も、読者によっては、すべて病という問題の解決を導くための手段としてしか見ない、ということなのです。(前回のこのブログをご覧になった方は、こうした読み方が、「回復の物語(the restitution narrative)」としてカズンズの物語を読む仕方に限りなく近づいていることがお分かりになると思います)。


しかし、実際は、そんなにカッコよくいかない物語の方が多いのではないでしょうか。身体の運動機能が回復に向かい、テニスもゴルフも乗馬も問題なくなった、などとサラリと言ってしまえない物語がたくさんあるはずです。また、医学誌を読みこなし、医師を見事に協力者として使いこなす主人公など、そうめったにいるものではありません。これらは、私たちにとっては、いわば病の生き方の理想像ではあるでしょうが、そうした理想像を供給する物語が喜んで消費されることによって、そこまでカッコよくなれない物語たちは、ますます「暗い話」とか「聞きたくもない話」になってしまう危険があります。耳を傾けるべきなのは、むしろそういう物語の方ではないのか、と私は思うのです。


どんなにすばらしい物語も社会の中に置いて考えると、そこには意外に複雑な問題が横たわっていることを考えさせられる一冊です。

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