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『グラン・モーヌ』 アラン=フルニエ (みすず書房)

グラン・モーヌ

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 アラン=フルニエのファン・サイト、legrandmeaulnes.comで、『グラン・モーヌ』の映画のリメイクが今秋公開されるという記事を見つけた。

 『グラン・モーヌ』は1913年に発表されたアラン=フルニエの長編小説で、フランスでは青春文学の傑作として広く読まれている。日本でいうと漱石の『三四郎』のようなものだろうか(発表年は『グラン・モーヌ』の方が5年遅いだけなので、同時代の作品といっていい)。

 『グラン・モーヌ』は1966年にブリジット・フォッセー主演、アルビコッコ監督で映画化され、日本では『さすらいの青春』という題名で公開されたが、残念ながら未見である(ビデオにもDVDにもなっていない)。リメイク版はクレメンス・ポエジー主演、ヴェルハージュ監督だそうである。

 クレメンス・ポエジーは『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』でフラー・デラクール(湖の中でハリーに助けられる魔女)を演じた新人。監督のジャン=ダニエル・ヴェルハージュは聞かない名前だが、TV畑の人で『ウジェニー・グランデ』、『ブヴァールとペキシュ』、『チボー家の人々』といった文芸作品を手がけているよし。日本で公開されるとしても先の話だろう。

 先に『三四郎』を引きあいに出したが、どちらも主要な登場人物が18歳前後で、ロマンチックな悲恋物語の体裁をとっている点は同じだが、作品の方向は正反対である。『三四郎』が新興日本の若いエリートの潑剌とした息吹にあふれているのに対し、『グラン・モーヌ』は象徴派的というか世紀末の色が濃く、夢が醒めた後のやるせない喪失感をたたえている。

 物語はサント・アガート村の学校の上級クラスにオーギュスタン・モーヌが入学してくるところからはじまる。学校といっても校長とその妻の二人だけで切盛りしており、校舎は校長の住まいと役場の出張所を兼ねている。モーヌは家が遠いので、学校というか校長の家に下宿することになる。物語の語り手のフランソワは校長の一人息子で、モーヌが転入した上級クラスで小学校教師になるための勉強をしている。

 クリスマスの前、校長の両親がやってくることになり、モーヌは勝手に馬車を借りだして駅にむかえにいくが、途中で道に迷い行方不明になる。

 三日後、モーヌは疲労困憊して学校にもどってくる。彼は三日の間に何があったのか口を閉ざして語らなかったが、フランソワにだけは廃墟のような城館に迷いこんだこと、仮装した子供たちと若い城主の結婚パーティに出て、城主の妹のイヴォンヌに恋をしたこと、結婚式は肝心の花嫁が逃げだしたために混乱のうちに終わったことを打ち明ける。フランソワはモーヌの三日間の冒険を心の中で反芻し、宝物にする。

 モーヌは帰りに乗せてもらった馬車の中で寝てしまったために、城館がどこにあるのかわからかった。彼は春になってからイヴォンヌに会うために城館を探すが、どうしても見つからない。この後、どんでん返しが二重三重にしかけられているので、物語の紹介はここまでにしておこう。

 『三四郎』との比較をつづけるなら、『三四郎』が直接経験の世界であるのに対し、『グラン・モーヌ』の語り手はボードレール的な幻想の球体の中にとじこめられている。傍観者的な立場に身を置いているので目だ立たないが、フランソワはドン・キホーテボヴァリー夫人に近いのだ。

 『グラン・モーヌ』は田辺保訳(旺文社文庫)と、天沢退二郎訳(岩波文庫)で読んだが、今回は「大人の本棚」シリーズの一冊として新版が出た長谷川四郎訳で読んでみた。

 長谷川四郎は『シベリア物語』で知られる詩人・小説家で、評論、戯曲、翻訳など多方面で活躍している(筑摩書房から出ている文庫版日本文学全集の『)長谷川四郎集』で代表作を読むことができる)。長谷川訳の『グラン・モーヌ』は1952年初版だから、半世紀ぶりの復刊である。

 長谷川訳は素直できびきびしており、流麗な天沢退二郎訳とはずいぶん印象が違う。二ヶ所、比較してみよう。

 まず城館の仮想パーティの場面から。

 この食堂の戸の一つが大きく開かれていた。その隣室からはピアノを弾く音が聞こえていた。モーヌは好奇心にかられて頭を伸ばして見た。それは一種の小さな応接間のような広間で、若い女か、或いは娘が一人、肩に大きな栗色のマントを羽織つて、こちらに背を向け、輪踊りか子守歌のような曲を非常にしずかに弾いていた。その直ぐ傍らのソファには六・七人の小さな男の子や女の子が、絵の中における如くきちんと並んで、夜も更けた時の子供たちのようにおとなしく、謹聴していた。ただ時たま、彼らの一人が両手で体を支え起して立ち上がり、床の上に辷り下りて、食堂へ入つていつた、――そして絵を見てしまつた子供たちの一人が今度はその後の席に来て坐るのだつた……。

 同じ箇所を天沢訳で引く。

 この食堂の扉は、大きく開け放たれていた。隣の部屋でピアノを弾いている音が聞こえていた。モーヌは好奇心をそそられて首を前に伸ばした。そこは一種の小さな客間・応接間だった。ひとりの婦人、あるいは若い娘が、大きな栗色のマントを肩にかけたまま、こっちに背を向けて、輪舞曲か小唄ふうの曲を、とても静に弾いていた。すぐ傍らの長椅子に、六、七人の小さな男の子・女の子が、夜おそくなったときの子どもたちらしくおとなしく、まるで絵の中の姿のようにちょこんと座って、聴き入っていた。ときどき、子どもたちの一人が、手首に体重をかけて身を起こし、床の上をすべるように動いて、食堂へ入って行ったりした。すると、絵本を見終わった子どもたちの一人が、代わりにこっちへ聴きに来るのだった……

 細部で解釈の違いがある。「床の上に辷り下りて、食堂へ入つていつた」(長谷川訳)のか、「床の上をすべるように動いて、食堂へ入って行ったりした」(天沢訳)のか。原文が手元にないので、わからない。

 次はレ・サブロニエールを訪ねたフランソワをイヴォンヌがむかえる場面。

 その時、私は頭をもたげて、眼前二歩のところに近づいた彼女を見たのだつた。彼女の靴は、砂の中で軽やかな音を立て、私はそれを、生け垣から垂れる水滴の音と混同したのである。彼女は頭と肩に、黒い毛糸のショールをかけ、こまかい雨が彼女の額の上の髪に、粉のようにかかつていた。きつと彼女は、部屋の中から、庭に面した窓から、私を認めたのだつた。そして、私の方へ来たのである。このように、昔、私の母は〈もうお帰りなさい〉というために、私を捜しに来たが、しかし、雨の夜の散歩が好きだつた彼女は、ただやさしく言うのだつた〈風邪を引きますよ!〉と、そして、私の話し相手として、そのまま、そこにいたものである……。

 イヴォンヌ・ド・ガレーは熱い手を私に差し出した。そして、私をサブロニエール家にへ入らせることを諦めた彼女は、苔むして緑青色のベンチの、あんまり濡れていない側に腰かけた。一方、私は立つたまま、その同じベンチに膝でもたれて、身を傾けて彼女の話を聞いた。

 天沢訳。

 そのとき、顔を上げると、すぐまぢかに、彼女が見えた。砂を踏むその軽い足音を、私は生垣に降る雨の音と混同していたのだった。彼女は頭と肩に、黒いウールの大きなショールを被っていて、額にかかった髪の毛に、こまかい雨粒がついていた。たぶん、彼女の部屋の庭に面した窓から、私に気付いて、それで下りて来てくれたのだ。以前に、これと同じように、母が、心配して私に「中へ入らなければ」と言いに下りて来て、そのくせこんな、雨の中の散歩が気に入って、やさしく「風邪を引きますよ」とだけ言うと、私につきあって長々と話しこんだものだ……

 イヴォンヌ・ド・ガレーは、熱い手を私にさし出したが、レ・サブロニエールの中へ招き入れようとはせず、苔が生えて緑青色をしたベンチの、いちばん濡れていないところに腰をおろし、一方私は、同じベンチに膝でもたれて立ち、イヴォンヌの方へ身をかがめて、彼女の言葉に耳を傾けた。

 「しかし、雨の夜の散歩が好きだつた彼女は、ただやさしく言うのだつた〈風邪を引きますよ!〉と」(長谷川訳)と、「そのくせこんな、雨の中の散歩が気に入って、やさしく「風邪を引きますよ」とだけ言うと」(天沢訳)は、フランソワの母が以前から雨の夜の散歩が好きだったのだ、その時たまたま雨の夜の散歩が気に入ったのかの違いがある。

 長谷川訳の巻末には森まゆみ氏による解説がついているが、これがなかなかおもしろい。『グラン・モーヌ』には熱狂的なファンが多いが、森氏もその一人で2004年にサント・アガート村のモデルであるエピヌイユ村を訪ねており、この時の紀行文が解説の主要部分を占めている。

 『グラン・モーヌ』は自伝的要素が多いといわれているが、村の地理も学校の建物も登場人物もすべて小説の通りで、『グラン・モーヌ』がロングセラーになってしまったために、改名を余儀なくされた村人までいたとか。こんなことは文学的評価とは無関係だが、ファンとしてはトリビアである。

 なお、エピヌイユ村を訪れた日本人はかなりいるらしく、訪問記をネットで公開している人もいる。国立民族学博物館の大森康宏氏のページでは『グラン・モーヌ』の舞台となったソローニュ地方の野鳥ハンティングの映像を見ることができる。

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