『輝く断片』 シオドア・スタージョン (河出書房新社)
大森望氏の編纂による日本オリジナル短編集で八編をおさめる。本邦初訳は三編、単行本初収録が一編である。同じ編者の『不思議のひと触れ』はイノセントな作品が中心だったが、こちらは鬼畜系である。スタージョンにはイノセントな面と鬼畜の面の両面があるのだ。
「取り替え子」は本邦初訳。日本人にはちょっとなじみの薄い取り替え子譚のスタージョン流のアレンジで、グロテスクな赤ん坊が出てくるあたりが鬼畜だ。
「ミドリザルとの情事」は艶笑SFとして有名な作品だが、男女の結びつきの多様性を訴えた作品と読むこともできる。マッチョ文化に対する嫌悪があからさまなかたちで出ているが、繊細なスタージョンは成人してから下層階級のマッチョ文化の中でもまれ、鬱憤がたまっていたのだろう。
「旅する巌」は本邦初訳。奇妙な現象の背後に宇宙人がいたというSFだが、ここにもマッチョ文化嫌悪がはっきり出ている。
「マエストロを殺せ」は『一角獣・多角獣』所載の「死ね、名演奏家、死ね」の新訳。邦題がずいぶん違うが、原題は「Die, Maestro, Die!」で小笠原豊樹訳の方が忠実である。
冒頭の段落を比較しよう。まず、小笠原訳。
おれはとうとう一丁のペンチでラッチ・クロフォードを殺した。これがラッチだ。奴のすべて、奴の音楽、奴のジャズ、奴の聴衆、奴のプライド、何もかもおれの掌中にある。文字通り、掌の中にあるのだ。ピンク色がかったナメクジ状のもの。片方の端に角質がくっつき、反対の側には血がくっついている。それが三本。おれはそれを放り上げ、受けとめ、ポケットに収め、ラッチのテーマ音楽だった《ダブー・ダベイ》を口笛で吹きながら、歩み去った。
次に柳下訳。
おいらはとうとうラッチ・クロウフォードをボルトクリッパで殺した。こいつがラッチだ――ラッチのすべて、音楽のすべて、ラッチのジャズ、ラッチの摑み、ラッチの誇りがおいらのてのひらに載っている。文字通りおいらの手の中に――三匹のピンク色のなめくじが一方に爪を、一方に血をつけて載ってやがる。そいつを宙に放り上げて、受け止めて、ポケットにおさめて『ダブー・ダベイ』を口笛で吹きながら歩く。こいつはラッチのテーマだった。
手の上で弄んでいるものが何かが徐々にわかってくるが、いつわかるかというタイミングが訳の巧拙をわける。
「ニュースの時間です」は自分の存在を確かめようとして狂っていく男の悲劇で、日本で最近頻発する秋葉原事件のような「誰でもいい」殺人と通底しているかもしれない。
「ルウェリンの犯罪」は「ニュースの時間です」の喜劇版だが、主人公の暴走の背景には弱虫はいけないというマッチョ文化があるだろう。アメリカの猟奇事件はマッチョ文化に疲れた男が犯すのではないかという気がしてくる。
最後の「輝く断片」は鬼畜小説の傑作で、伊藤典夫氏の練達の翻訳で読める。キングの『ミザリー』と同じパターンだが、もしかしたらキングは「輝く断片」から着想したのかもしれない。『ミザリー』の場合、ミザリーを作家の熱烈なファンの元看護婦にするといった合理化がはかられているが、「輝く断片」の方は合理化一切なしに一気呵成に語られており、緊迫感と不条理感には目を見張るものがある。