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『演劇場裏の詩人 森鷗外―若き日の演劇・劇場論を読む』 井戸田総一郎 (慶應義塾大学出版会)

演劇場裏の詩人 森鷗外―若き日の演劇・劇場論を読む

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 鷗外は芝居好きの家に育った。千住時代は家族そろって近所の芝居小屋や寄席にくりだすことがよくあった。弟の篤次郎は三木竹二の筆名で歌舞伎評論の草分けとなった。

 ドイツ留学時代も鷗外はオペラから場末の見世物まで、さまざまな劇場に足繁く通った(『独逸日記』の観劇の記述は取捨選択したもので、実際はもっとたくさん見ている)。芝居を見ただけではなく演劇関係の本や本業の衛生学とひっかかりのある劇場営業法関係の資料を収集し、日本に持ち帰っている。

 鷗外留学中の1886年、日本では伊藤博文のお声がかりで演劇改良会が結成され、欧米の一流劇場のような洋風劇場を建設し、「野鄙猥褻にして日進文明の人情世態に適さない」歌舞伎を上流人士の鑑賞にふさわしく近代化しようという運動が起こっていた。鹿鳴館同様欧化政策の一環であり、当然反撥もあった。

 1888年に帰朝した鷗外は演劇改良運動の渦中に飛びこんで論陣を張り、西洋の演劇理論を紹介し、戯曲を翻訳し、さらには自ら劇作の筆をとった。

 本書は20代の鷗外が演劇とどう係わったかを追求した論文集である。

「第1章 一八八〇年代のドイツと鷗外の観劇体験―劇場と制度」

 明治の日本は欧化に懸命だったが、お手本とされたヨーロッパの方も近代化の最中だった。お手本自体が日々変貌していった。

 この論文は1860年代から80年代まで20年間のベルリンの劇場事情を、警察当局の劇場営業法とからめて跡づけている。

 ベルリンは1860年代から人口が急増した。1860年に50万人だった人口は1877年には100万人を突破し、鷗外が帰国した1888年には150万人に迫ろうとしていた。

 警察は劇場の許認可に慎重だったが、1869年に劇場営業法に「営業の自由」が盛りこまれ、「申請者に信頼できない事実が存在しない限り、認可は与えられねばならない」とされると劇場の数は瞬く間に数倍に増えた。宮廷国民劇場にあたえられていた悲劇・大オペラ・バレエの独占上演の特権も撤廃された。

 歌謡と演芸の上演だけが許されていたカフェ・シャンタンやティンゲルタンゲルと呼ばれる飲食店に併設された舞台でも芝居が上演できるようになった。

 あまりにも劇場が増えすぎたので1870年代には揺りもどしが起こり、当局の規制が強化されるようになった。

 この論文の一番の読みどころは『舞姫』のヰクトリア座のモデルとなったベルリン・ヴィクトリア劇場を考証した条だろう。

 場末のうらぶれた劇場と思いこんでいたが、1859年の開場当時はベルリンを代表する大劇場で、1862年には幕府遣欧使節団の公式レセプションがおこなわれ、福沢諭吉『西航記』に「フクトリヤ・ヲペラ」として登場するという。

 この劇場は広大な庭園の中に建てられていた。庭園の両側には緑のつるで被われた格子が組まれ、庭園の前部には周りを水性植物と貝で飾った白鳥型の噴水が水を噴き上げていた。庭園後部の一段高くなっている部分には立派な柱廊広間横幅いっぱいに作られ、広間の上階は楽隊の席の両側に桟敷が設けられ、庭園が眺められるようになっていた。上演の前後には音楽が演奏され、庭園はガス灯で煌々と照らし出された。

 劇場の構造にも特色があり、一つの舞台を挟んで冬用の客席と夏用の客席が向かいあって配置されていたのだ。冷房がなかった時代、夏専用の劇場があったが、ヴィクトリア劇場は夏冬兼用の最先端の劇場だった。

 ヴィクトリア劇場は舞台で本物の火を使うスペクタクルを売りにしていたが、1881年にウィーン・リング劇場で大火災が起こり、多数の死傷者が出ると火の使用が禁止され、急速に寂れていった。道路拡張計画に引っかかったことが直接の原因となり1891年に取り壊された。

「第2章 都市と劇場―安全な劇場をめぐる言説」

 この論文は前段では1881年のウィーン・リング劇場の火災を機に整備されたベルリンの劇場防災令と、その影響を受けたらしい東京の劇場取締規則改正を検討する。後段では「欧州劇場の事」、「劇場の雛形」、「劇場の大きさ」の三つの論文を紹介する。

 リング劇場の火災は当時は大事件と受けとめられたらしく、ベルリンで「衛生及び救難博覧会」が開かれると大反響を呼び、展示物を収蔵する衛生博物館がクロステル街に作られる。エリスの住居があるとされたあのクロステル街である。

 「欧州劇場の事」は次章の内容と重なるのでここでは割愛する。

 「劇場の雛形」は「衛生及び救難博覧会」で募集された懸賞論文で一席となったシュミットとネッケルマンの「模範劇場」の構造を詳述し、ヨーロッパの最新防災技術を紹介している。

 「劇場の大さ」は日本の劇場は枡席なので一人あたり専有面積はヨーロッパの劇場の半分しかないと指摘したり、台詞劇用の劇場かオペラ用の劇場かで最適な面積が異なると説いている。

「第3章 演劇の近代―欧化主義と国粋主義の対立を超えて」

 この論文は本書の要になる力作で多彩な内容を含んでいるが、前段はハードウェアとしての劇場論、後段は劇場の運営の主体は誰であるべきかを論じたソフトウェアとしての劇場論となろう。

 最初の二つの論文は衛生学者もしくは行政官としての鷗外が前面に出ていたが、ここでようやく演劇史的な視点と演出の視点が中心になる。

 鷗外が帰国した時、日本では演劇改良論が世をにぎわしていた。劇場の構造も大道具もすべて洋風にしろ、時代遅れの花道などは廃止してしまえという末松謙澄らの欧化論に対し、鷗外は「しからみ草紙」創刊号の巻頭に載せた「演劇改良論者の偏見に驚く」と、それにつづく「再び劇を論じて世の評家に答ふ」で真向から反論する。

 欧化論者が西洋の劇場と思いこんでいるプロセニアム・アーチとデコレーション優先の重厚な装置を備えた額縁舞台は18世紀から19世紀前半に流行した様式にすぎず、決して西洋を代表する劇場ではない。ギリシア時代の劇場ともシェークスピア時代の劇場とも異なっており、そうした劇場では速い舞台転換ができず、『夏の夜の夢』や『十二夜』は上演不可能である。

 ヨーロッパでは新しい様式をもとめて模索がはじまっており、演劇改良論者が古いと決めつけている歌舞伎の花道や回り舞台をとりいれ、『夏の夜の夢』を上演する試みがおこなわれている(歌舞伎は西洋人の旅行記で紹介され、演劇人の注目を集めていた)。

 ゲーテにはじまるドイツの演劇改革運動ではデコレーションに頼らない「簡樸なる劇場」が理念に掲げられているが、日本の劇場はまさに「簡樸なる劇場」である(鷗外は「夫れ日本劇場は即是れシエイクスピイア舞台なり」とまで書いている)。

 次に鷗外の演劇論中最重要の「演劇場裏の詩人」に移る。この論文は1890年2月の『しからみ草紙』第五号に掲載されたが、日本演劇協会でおこなった講演が元になっている。

 鷗外は国民教化の場とすることにも反対し、ゲーテを援用しながらあくまで「詩情の発揮の場」、「審美の対象」であるべきだと説くが、ゲーテの俳優は一枚の絵画たる舞台の一添景にすぎないとする俳優論には反対し、ゲーテを批判的に継承した19世紀のドイツ演劇改革運動に論を進めていく。

 レアリスム論など興味深い論点が多々あるが、デュッセルドルフで改革を実践したインマーマンによるところが大きいそうである。

 それまでの宮廷劇場は宮廷人が運営にあたっていたが、インマーマンは詩人があたるべきだとし、実質的な権限をIntendant(本書では「劇場監督」の語をあてているが、「芸術監督」の方が一般的である。「劇場監督」では「舞台監督」と混同しかねない)に集中させた。

 鷗外はインマーマンの実践を踏まえて「演劇論者」が「詩人たる資格」で「興行の権」を握るべきだとした。本書の表題となっている「演劇場裏の詩人」とは芸術監督として責任を負った劇作家に他ならない。

 今日芸術監督となるのは劇作家よりも演出家だが、演出が独立した仕事として認知されるのは20世紀になってからで、当時は過渡期だった。

 ちなみに日本で最初に演出を問題にしたのは和辻哲郎だという。和辻は鷗外訳のホーフマンスタール『痴人と死』の劇評でレギー(演出)に「舞台技巧」の語を当てて論じているよし。

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