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『不幸になりたがる人たち―自虐指向と破滅願望―』春日武彦(文藝春秋)

不幸になりたがる人たち―自虐指向と破滅願望―

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感情的啓蒙書という文学

 この本は痛快きわまりない。深夜に読んでいて、何度、不気味な高笑いをしたかわからない。著者は冒頭に「わたしの書き綴った内容が上手く読者諸氏へ伝わるなら、おそらく本書はきわめて後味の悪い読後感をもたらすだろう。決して爽快な気分にはなるまい」と記している。そうしてみると、わたしは筆者の意図をまったく理解していないのかもしれない。それでも痛快で、爽快ですらあると感じるのだからしょうがない。


 ちなみに、本書のタイトルには異様な折衷が施されたとしか思えない。春日武彦流でありながらどこかそうではない気配がして、しかも明らかに異質な副題が付与されているからだ。本書は、実際のところ、「グロテスクな人々」について書かれたものにほかならない。

 「グロテスクな人々」とは、本書のカバーに付された引用部分に代表されるような煽情的人々、「虎に喰われたかったのに熊に喰われて昇天してしまった主婦、葬式代がないからとアパートの床下に妻の遺体を埋めた夫、電動式自動遥拝器を作ってただひたすら『供養』する男などなど」に限らない。日常に遭遇する以下のような人々もグロテスクなのだ。

 あるいは、混んだ電車の中で、平然と足を組んで座っている輩。周囲の非難の目にも気づかず、自分の都合だけを前面に押し出してへらへらとしている薄馬鹿を見ていると、それは躾が悪いとか育ちが悪いとか鈍感といったことに過ぎないのかもしれないが、もしかするともっと歪んで醜いものがこいつの心の底には埋もれているのではないかと想像されてきて、その見えざる広がりにわたしは辟易してしまうのである。

 グロテスクの定義はこうだ。

 グロテスクであるとわたしが考えるのは、彼らの行動には、なぜか不幸や悲惨さや苦しみを指向する要素が伴っているように見えてしまうからである。すなわち、生き物としての本能に従っていない。といって何らかの高邁な思想や志があるというものでもない。楽をしたい、面倒を避けたい、仕返しをしてやりたい、金が欲しい、癒されたい、救われたい、感心されたい、同情されたい―そのようなまことに人間的な欲望を持ち合わせているのに、彼らの考えや行動は目的に対して合理的でない。

あるいは逆に、超合理的であり過ぎるところに人間として欠落したものがあるように感じられてしまう。彼らの言動から立ちのぼる矛盾や見当外れなトーンは、「人間という不完全なもの」をおおらかに容認し、だから人間は多種多様で面白いのだといった認識にわたしを導かない。理解し難い奇怪な精神の持ち主、予想のつかない振る舞いをしかねない得体の知れぬ存在としか映らない。

 かように「グロテスクな人々」を描写してうえで、春日武彦は書く。「もちろん、その範疇には、このわたし自身もまた含まれている」。

 『不幸になりたがる人たち』はひときわ感情的な書である。読者を笑わせるから感情的なのではない。春日武彦の感情が感じ取れるから感情的なのだ。知のマントを翻しながら語る春日武彦には、潔いまでの大胆さと巧みさがある。知の大風呂敷を拡げる専門家は少なくない。知の過剰包装をする者も然り。知にヤマイダレのつく場合すらある。けれども、借り物・孫引きでない知が自らの感情に寄り添って表され、しかも日常感覚に即した合点を授ける啓蒙書は稀である。たとえば、このような箇所がある。

 わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、それは人間にとっての精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」の三つに収斂してしまうことに通じているのかもしれない)。…これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。

 春日武彦の言葉には、生々しいのに切れ味があって、露骨なのに洒落がある。カタカナを使う時の独特の含みと嫌味(すら感じる)などは、そのほんの一例である。言葉選びのセンスが絶妙なのだ。この気持ちの良い言葉体験については、ほかならない春日自身が「近似値の言葉」という小見出しをつけて説明してくれている。小学校二年生の時に好んでいたテレビ番組にまつわる記載だ。

 で、わたしはこの番組がいかに自分好みであり素敵なのかを他人に伝えたかったのだが、それを上手に言いあらわせなかった。たった一言できっちりと表現出来そうな気がしていたのに、その言葉がどうしても見つからない。もどかしく、自分の思いが自分の中に閉じ込められたまま出口を探し求めているような閉塞感を覚えずにはいられなかった。切なかったのである。

 ところが、「大人びた」上級生のI君が或る日あっさりと「うん、たしかにあれは君が好きそうだね。分かるよ。なにしろ、あれは飛行機的な番組だからねえ」と言ってのけるのだ。

 わたしは「飛行機的」という、今から考えればあまりにもこなれていない言葉に、しかしそのときには息がとまるほど心を動かされたのである。それまで自分の内部でもやもやしていた思いが、たった一言「飛行機的」という言葉で完璧に言いあらわされている。まさに胸の「つかえ」が取れ、もどかしさが一気に雲散霧消したかのような爽快感を覚えたのである。言葉にはそれほどに力があるのだ―そんなことを心の底から実感したのであった。おそらくこのときの体験は、精神科医としてのわたしに決定的な影響を及ぼしているに違いない。

 わたしが『不幸になりたがる人たち』に感じる爽快感は、春日武彦が小学校二年の時に覚えた感覚に近いのだろうと思う。日頃、痛切していても自分の言葉のパズルにはまらず不器用にしていた情けなさを一掃してくれたという感覚だ。

 わたしは自分の専門領域である精神医学関連の書物をこの書評空間に引き入れるのを避けてきた節がある。例外となった『不幸になりたがる人たち』は、精神科医としての経験と知識を盛り込んだ専門的啓蒙書には違いないのだが、わたしにとっては文学に近い。上等な随筆と呼べる。専門書では滅多に得られない言葉体験のもたらす快感と、それらの言葉の奥にある著者の真摯さが、『不幸になりたがる人たち』の大きな魅力だからなのだろう。

 付記:ここまで春日武彦と呼び捨てにしてきて、正直わたしは居心地が悪い。春日先生はわたしが研修医時代にお世話になった大先輩だ。先生が大学病院を辞められた時に下さった一冊の小説と水彩クレヨン(絵画療法用)を、わたしは今も大切にしている。あれから20年も経って、ひとりの読者として再会できて、とてもうれしい。


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