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『マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために』パオロ・ヴィルノ(月曜社)

マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために

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「現代における労働の意味」

ネグリ/ハートの『帝国』以来、流行になってきたマルチチュードの概念は、政治や文化などのさまざまな次元で考察すべきものだと思うが、本書が語るように、現代における労働の概念とも切り離すことができない。著者はマルチチュード、すなわち「多数的なもの」を、「ポストフォーディズム的労働者」(p.12)のことと考える。そして自覚するかどうかは別として、それは現代の社会で生きるぼくたちのことでもあるのだ。

アダム・スミスの『国富論』の冒頭で分業の生産性の高さが称揚され、マルクスが分業における疎外を指摘していらい、ずいぶんと長い時間が経過したものだと思わざるをえない。現代でも労働が疎外されたものであることは変わらないとしても、もはや労働者の労働は剰余価値を作り出すものとしては、それほど大きな地位は占めていないのである。

現代の工場労働は、オートメーションのもとで機械の監視をするものとなっているが、この機械というものはそもそも、労働者が暗黙のうちに身に付けた技能を盗み取ることによってしか、作業を自動化することができないものだった。これは労働者の身体的な知を、科学的な知によって代替することによってしか、実現できないものだったのである。

だから現代のオートメーションの基盤となっているのは、労働者が身体的なものとしてみにつけていた暗黙知であり、労働者はたんに分業に勤しむのではなく、この暗黙知を語りだすことを求められるのだ。これはいくつかの重要な問題を提起する。一つは労働の意味が変わってきたということだ。著者が言うように「三〇年前であれば、多くの工場に次のように命令する紙が貼られていました。〈静かに、仕事中です〉」(p.172)のはたしかである。しかし今では「ここは仕事場です。話しなさい!」という張り紙があっても不思議ではないのである。

暗黙知はオートメ化だけではない。実際に作業する労働者にしか考えることのできない作業プロセスの効率化のヒントというものがある。多くの工場では、末端の労働者にいたるまで、作業の「改善」の提案をすることが推奨され、ときには強制された(そしてわずかな報償金が出された)。課長たるもの、自分の課のうちに。提案できない従業員がいるときは、みずからの発案で、または他の従業員の提案をかすめる形で、その従業員に何か提案させなければ、勤務評定に響いたものだった。

第二に、この労働者の身体的な暗黙知は、まだ顕在化されないものとして、「力能、すなわちデュナミス」(p.153)を意味するものであり、労働力とは、「実在的に存在するのではなく、可能的な形でのみ、存在するもの」なのである。これは生きた人格と不可分であり、労働者の「生」はその意味で重要なものとなる。「資本家が、労働者の生、労働者の身体に興味をもつのは、ひたすら間接的な理由からです。要するに、この身体、この生が、能力、力能、デュミナスを含んでいるからです」(p.153)。著者は「生政治」を語ることができるのは、この意味においてだけだと強調する。これは生政治を労働から分離して、「存在論的範疇に変容させてしまう」(p.239) アガンベンへの批判につながる論点である。

第三に労働者の身体がこのような暗黙知の容器として機能することから、労働者が労働時間のうちに何をしているかだけではなく、労働時間でない時間をどう過ごしているかが重要な意味をもつようになる。コミュニケーション能力を高め、表現する言葉を学び、新たな知識を獲得することが労働者の大切なつとめとまでみなされるようになる。それはたんに生涯学習だけの問題ではなく、コンピュータ・ゲームなどのエンターテインメントなど、労働者が労働時間外に何をしているかが、労働力の生産性に大きく影響してくるということである。「メディア的な好奇心とは、技術的に〈複製=再生産〉の可能な人工物についての感覚的な学習のことであり、知的生産物について直接的な知覚のことであり、様々な科学的パラダイムについての身体的な配視のことなのです」(p.180)。

だから「就労と失業のあいだに、いかなる実体的な差異」(p.196)も見出だすことができなくなる。「失業とは不払い労働のことであり、労働のほうは有給の失業である」と、著者とともに言うことができるだろう。流行のSOHOも、派遣も、アウトソーシングも、資本にとっては就労を保証することなく、潜在的な失業状態におきながら、仕事を発注するときだけにいくらかましな賃金を支払う巧みな制度にほかならない。そしてそれは実は社内での労働の意味の変動を裏返したものにほかならないのである。

労働の意味がこのように拡散し、ついには労働が国外に輸出されるようになると、労働者はつい、「国民国家を防御と見なす」ノスタルジーに駆られがちである。著者はこうした傾向に警鐘を鳴らす。グローバリゼーションとともに、「国民諸国家は、言わば、空の甲殻のように、すなわち空き箱のようになっています。そのために、人々は国民国家に感情的備給をしているわけですが、これは非常に危険なことなのです」(p.244)。これは外国人嫌いをもたらし、「嫌悪的であると同時にサバルタン的でもあるような態度」へと変容していくリスクを抱えているからだ。現代においては労働よりも消費が重要な意味をもっていると語られることもあるが、労働の現代的な意味を再確認させてくれる一冊である。

【書誌情報】

マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために

パオロ・ヴィルノ

廣瀬純

月曜社

■2004.2

■259p ; 19cm

■ISBN 4-901477-09-9

■定価 2400円

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