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『良い死』 立岩真也(筑摩書房)

良い死

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「良い死?ではなくて、存在の肯定のためのあらゆる思考」

  しばらく更新を怠っていました。スミマセン。患者会の仕事も、ますます忙しくなる今日この頃です。先々週は、厚労省の「終末期医療の在り方に関する懇談会」第三回目にALSの友人のお供として参席し、高名なドクターの講話を聞いてきました。お二人とも素晴らしく人間的な医師で「かわいそうな患者からは呼吸器も停止してあげられるようにしたい」という同情的なお話をされました。たしかに傍から見ればそうなのでしょう。いくら手を尽くしても、治らないのでかわいそうにしかみえない患者群というのがあります。私の友人たちは、自動的にそこに分類されてしまうので、実はとても困っているんです。それに「希望どおりに死ねるルールを作る」という暖かいお申し出も、こちら側からみれば、自殺を容認してあげる、という大胆な話なんです。ずいぶん感じ方が違うでしょう?


「自分の意思が伝えられなくなったら、死なせてほしい」。私の友人たちはたいていそう願っています。そんな生は死より辛いと思って。まあ、そう思うのも致し方ないけど、果たして、その時に感じられる身体は、いま私たちが「死ぬほど辛いに違いない」と思っているように、ひどく深刻なのでしょうか?そこに、ひとつ考えるべきことがあります。また、そんな生には生きる価値がないのでしょうか。

 立岩さんに、初めてお会いした時、私は身近な人のそのような生に、どう対処すればよいのかお聞きしました。すると先生は、その時もこの本にあるようなことをお話しされました。「送信できなくても受信ができれば、それでよい」と。

 「世界の方が常に私より大きいし豊かである。だから、それを享受することの方がより大きくよいことだと考えるのが当然である」(p205)

 患者の「語り」や「ナラティブ」が流行っていることに対しては、

「それが生きていたり、病んだり、死んだりすることの意味を与えるものであるとは思わない」というのです。

 まあ、確かに病人が我が身の辛さや痛さを語っても、それで建設的な何かが期待できるということはあまりないのかもしれない。でも、その語りに耳を傾けた者は、当事者の気持ちを想像できるかもしれないのです。 でも、立岩さんは傾聴など役に立たないと思っていますし、病人の探求にも同情を示さないばかりか、「そうたいしたものは見つからない」と言い切ってしまう。

 だから、立岩さんの言葉そのままを受け取ると、病人は馬鹿にされたような気がしてしまうでしょう。そんな誤解もないことはないので、ここでちょっとだけ、立岩さんの論考を解説してみます。

 まず、語りあいを大切にする世界では、発信できなくなった途端に生きる意味さえ失ってしまうでしょう。それが、この社会の現実です。まとまった、意味のある言葉を発せない者たちは、それでも生きていかねばならないのですが、語れないからといって我慢して生きているのでしょうか。いやそうではない、というのが立岩さんの論です。

 立岩さんは、受信できる限りにおいては、「自分を囲むものの中にいられる」と言います。これなら、たとえ自分の内面を探求できず、自らを語れなくなったとしても、否定されませんから、より遠くまでいくことができます。立岩さんの論は一見とても冷たいようではありますが、実はもっとも弱い患者に寄り添える論なのです。

 たとえば、最重度のALSや遷延性意識障害、重度の精神知的障害児、アルツハイマー認知症、脳血管性疾患の人も、自らの世界を語ることはできません。それでかわいそうだから、ということで医療を制限し、社会からだんだん淘汰されようとしています。そんなひ弱な存在は、健常者の生活からは隔絶されているところにあるので、私たちはまったく気がつかないけれど、本当にたくさんいます。 そして、言葉で彼らの存在を肯定しようとすると、それは難しく、そしてもろく、弱いのです。

 そのような現実を知らない人は、そんな生になっても「生きろ」ということが、傲慢だというかもしれないし、実際に立岩さんはそのように批判されていることもあります。でも、ぎりぎりの生を死なずに生きている大勢の人にとっては、「ただ生きろ」と言ってくれる立岩さんは、稀有で貴重な味方です。

 発信できないことを悲しまなければ、そんな生を否定しないですみますし、実際に、私たちだって大切な人に発した一言から誤解を生じさせた失態を思い出せば、極力語らずに、ただ互いを受信しあっているほうが、うまくいく。きっと長くいっしょにいられるでしょう。

 だから、存在の意味や価値を確かめようと努力すること事態がくだらない。そんなの当然のことだからと、簡略にしすぎかもしれませんが、そんなことを、立岩さんは言っておられるような気がします。

  ただ、生の在り方はそのように認められるとしても、身体が存在する限り、痛みは具体的に感じられるもの。「ここです痛いのは。辛いのはこのことです。早く何とかして!」と訴えられないという状況は、もしかしたら、死に匹敵するほど辛いのかもしれないと、医療者や患者はそのことを言うのですが、立岩さんは彼らの心配には、具体的には応えられません。

  痛みの緩和についても、モルヒネに頼るのはよいのかとか、介護する人がいないとか、治療するお金がないとか、現場でのトラブルの処置を問う終末期の議論もあるはずなのですが、この章は次の言葉で締められてしまいます。

「一身の生存のためのことは、いくつかのことに気をつけながら、した方がよいのだという、陳腐といえばまったく陳腐な処世の術が導かれる。」

  こうして、立岩先生はここでは理論だけで終わってしまうんですが(そうでない著書もあります)、その論の検証のために、ぴんからキリまである「陳腐な処世の術」対策のほうを引き受けているのが、この私の仕事ということになります。つけ加えますと、先生はよく皮肉な言い方をされますが、私たち現場の者の仕事にはいつも敬意を払ってくださっています。


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