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『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』吉見俊哉(講談社)

「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史

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●「近代日本のざわめきの歴史」

 本書『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(1995)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての聴覚メディアの形成史をたどっている。著者・吉見俊哉は、社会や感覚の変容を技術変化の関数として捉えるマクルーハン流のメディア論を斥け、メディア技術の変化を集合的な感覚の変化の関数として捉える視座を示す。

 本書において著者が特に注目するのは、「声」の変容そのもののなかに内在している「資本主義」の作動である。資本主義とは、人間の身体性/関係性の構造的変容自体のなかに存立しているシステムであると、著者はいう。複製メディアの登場や声の文化の変容もまた、資本主義の一契機なのであり、マクロな産業システムの変動によって説明できるものではなく、文化それ自体の身体技術論的な変容として記述されるべきものなのである。そうした資本主義が内在する声・聴覚メディアの形成の歴史と、現在におけるそれの社会的拘束性を明らかにすべく、著者は、大衆の想像力とブルジョアの欲望、知識人や音楽家たちの試み、産業の思惑と国家の戦略、専門的送り手/受動的聴衆の中間に位置するアマチュアたちの実践といった複数のアクターたちを次々に登場させる。

 本書の試みは、直接的には若林幹夫・水越伸との共同研究『メディアとしての電話』(1992)を引き継いだものであり、理論的には『メディア時代の文化社会学』(1994)の問題関心に応答したものである。著者はその後も、一方で新聞やテレビをめぐる一連の歴史研究を進め、また一方ではカルチュラル・スタディーズのオーディエンス研究などをも接続しつつ、『メディア論』(水越との共著・2001)、『メディア文化論』(2004)をまとめることになる。


 20世紀がまもなく終わろうとするときに、その世紀を一貫して記録し支えてきた聴覚世界の由来を記そうとした本書の問いの底流には、12年の経過を感じさせない鋭さが、いまなお宿っているように思う。

 「音痴でカラオケすら歌えず、音楽にもまったく疎い私」(p.289)と告白する著者は、むしろ従来の音楽研究者が発想しなかったような視角から、近代における音や「音楽」の歴史を抉り出している。近年では「聴覚文化研究auditory culture studies」と呼ばれる新たな研究のフィールドが拓かれつつあり、そこでは既存の「音楽」概念の見直しや、「音楽」と複製技術をめぐる社会的自明性の問い直しが進められているが、この書物はそうした新たな流れにも接続しうる試論も用意している。


 とはいえ、いくつかの点で不満も残る。もちろん、この著者によく向けられる批判として、歴史家としての資料の取り扱いの粗さ、取り上げられるべき事例の偏り、考察の甘さといった疑義を軽視するつもりはない。しかし、そうした限界を自覚する社会学者に対して、ここで同じ問題を蒸し返すのは、生産的な批評とはいえまい。

 本書において提示された音響メディアの形成史とは、いったいどのような歴史的な見取り図のなかに、あらためて位置付けられるものなのだろうか。これを考えるためには、「なぜ声や耳なのか」という疑問から、問いを始めてもいいかもしれない。感覚変容の問題系を考究するにあたって、なぜ聴覚があえて論じられる必要があるのか、どのようにすれば聴覚を取り出して論じることができるのか、ということについては、最後までそれほど明確には示されていないからである。

 声は、文字と不可分に存在する。本書がオングの「二次的な声の文化」の社会的成立を問う試みとしてスタートしたのならば、声を単独に拾い上げるのではなく、文字との重なり合いのなかで、両者の分節化と生成の過程を構造化する枠組みが必要になる。そこでは、たとえば音のエクリチュールであるレコードが、音響メディア以前の大量複製技術である印刷といかなる理論的関係をもちえるのかなどといった問題が、幾重にも含まれるであろう。

 こうした問題と関連して著者は、本書の最後でアンダーソンやアイゼンステインなどの議論を引き合いに出しつつ、出版資本主義の電子資本主義への転態や、1930年代以降の均質的な国土としての声の成立を論じることになる。しかし、この論の流れには、読者としてはやや性急な印象を受けてしまう。この著作の面白さは、声の動員や国家への回収といった大仕掛けへの安易な早上がりを禁欲し、むしろ国家や産業をメディアの社会的形成過程のファクターの一つと捉えることで、大衆の想像力や中間的存在としてのアマチュアたちの活動などに広く目配りしてきた点にあったからだ。印刷によって準備された同時的で均質的なコミュニケーションの空間に、声の文化が付け加わることで、より完全なかたちでの国民国家が実現したのだ、と著者が論じている限りにおいて、はじめに設定した問いの射程と考察の枠組みは、じゅうぶんに活用されないまま失効してしまうように思う。

 しかしその逆に、大衆の想像力やアマチュアの実践の歴史的意義を強調するだけでは、歴史が現代を反省的に照らし出すことはない。たとえば著者が、1925年の日本のラジオ・ファンたちの「電子のざわめき」が消し去られていく様子を「摘まれていった芽」(p.254)と形容するとき、本書で一貫して考察されてきた「電子のざわめき」の時代は、過度にユートピア化された理想的な過去として語られ、動員による収束によって片付けられてしまうのだ。それでも、「今日もなお現代のメディア・コミュニケーションを構成する基層的な文化として存続し続けている」(p.279)と論を閉じる著者は、ざわめきの奥底から聞こえてくる「大衆的な無意識」のようなものを、どこか楽観的に信じているふしがある。こうした思想的格闘を、文字と声の広がりのなかで、あるいは戦後や現代の問題のなかで位置付け理論的・実証的に示すことこそが、この書物に残された課題ではないだろうか。

 もちろんこれは、著者・吉見が読者にも委ねた課題である。わたしたちに求められているのは、本書の問いをより深く掘り下げ、戦後から現在までのメディア環境の問題のなかに血肉化していくこと、そして、近代の音響メディア文化の広がりのなかで絶えず生起し去来していた大衆的な想像力や心情のざわめきを聴きとっていくことではないだろうか。


(周東美材)

・関連文献(三点)

細川周平 1990『レコードの美学』,勁草書房

Ong, Walter J. 1982 Orality and Literacy : The Technologizing of the Word,Metheuen.=1991 桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』,藤原書店

吉見俊哉 1994『メディア時代の文化社会学』,新曜社

・目次

序章 声の資本主義

第1章 驚異の電気術

第2章 声を複製する文化

第3章 テレフォンのたのしみ

第4章 村のネットワーキング

第5章 無線の声のネットワーク

第6章 大正のラジオマニアたち

第7章 モダニズムと無線の声

終章 再び、声の資本主義

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