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『ポスト消費社会のゆくえ』辻井喬・上野千鶴子(文春新書)

ポスト消費社会のゆくえ

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「セゾンの失敗から学ぶ」

 東京在住時代、西武新宿線沿いに住んでいた。西武鉄道は移動の足だった。
 その経営母体である西武鉄道グループの代表である堤義明が、粉飾決算証券取引法違反有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕されて辞任。その後、有罪が確定。堤義明といえば、長野オリンピックの黒幕として、月刊誌『噂の真相』などのメディアで批判され続けてきた、西武グループの独裁者である。マスコミはこの独裁者への批判をすることなく、長くその体制を看過。刑事事件に発展してから、集中砲火を浴びせ、堤義明は社会から抹殺された。このため、なぜ堤義明という独裁者が登場したのか? という歴史の証言をひきだすことが困難になっている。

 しかし、同じ西武グループでも、堤清二堤義明の異母兄弟のひとり)は饒舌である。文人として「辻井喬」として活躍しており、堤清二の経営者の顔とを自由に使い分けながら、歴史に記録を残していこうという旺盛な意欲がある。

 本書は、セゾングループ代表だった堤清二と、社会学上野千鶴子の対談である。

 ひとつの企業が時代の波に乗って成長し、破綻していった歴史を、上野が綿密にききとっていく。すぐれたオーラルヒストリーの仕事になっている。

 私が興味を持ったのは、組織のトップが、経営情報から遮断されるという現象が起きる点だった。

 セゾングループは、関連会社のリゾート開発事業と消費者金融ビジネスで失敗。これが引き金になって、本業である小売業でも経営が行き詰まり、結果的にグループの解体を迎えている。

 辻井は、経営者堤清二として、「敗戦処理」をしていくとき、部下から情報が出てこないなかで、情報を収集する苦労をこう語っている。

責任者からデータを引き出すのはものすごく時間がかかるんです。まず一緒に飯食いながら、「いや、きみを責めているんじゃないよ」と安心させないとダメなんですね。「君の責任だとは思わない。負債が嵩んでいても、きみが私利私欲で会社のお金をごまかしていたんじゃないことはわかっている。どんなデータが出てきても、君を背任横領で訴えることはしない。長年一緒に働いてきた仲間なんだから」と少しずつ説き伏せて、「僕が事後処理をするから、信用してあらいざらい話してくれ」と言ってから、実情を聞き出すんです。その責任者は、当然「ありがとうございます」と言いますけどね。

 この経営幹部達は法的な責任をとられることなく、辞表を出して会社から去っていった。

上野「企業の失敗の責任を取らないというのは、日本的な解決方法ですね」

辻井「そうです。まさに日本的です。ですから最終的には、私一人が責任を取るしかないな、と認識しました」

 辻井は、堤家のボンボンである。西武鉄道をつくった父に反発するが、その父の命令で会社経営に乗り出す。本人は、父への反逆者として振る舞っているつもりでも、周囲はボンボンとしてしか見ない。文人辻井喬として活躍する場を確保して、堤清二という社会的な存在を相対化する視点を捨てなかった。経営者として徹底できなかったために、セゾングループ解体という最悪の結末を迎えた。こうした「辻井喬堤清二」という存在を、消費社会の牽引役としての功労者、ボンボンとしての愚かさ、といった等身大の人間としてあぶり出していく上野の手際のよさは見事。これに応じる辻井喬も、批判を甘んじてうけることで、歴史の証言者としての仕事を全うしようとしている。

 本書で描かれたセゾン解体劇は、大会社を経営しているトップにとっては現在進行形のドラマであるはずだ。

 消費によって幸福になるかどうかはわからない、という意識が普遍化されたポスト消費社会においては、巨大企業の経営者はみな気まぐれな消費者に振り回される。

 会社が経営破綻したとき、経営者はアイデンティティの全てを喪失するかもしれない。だが、 堤清二は経営者として終わったが、文人辻井喬は残った。普通の経営者は、このようなダブルキャリアを送っていない。このことを辻井は深く理解し、いまの自分のおかれた環境に満足しているようだ。

 堤清二のような才人でも、これだけ多くの失敗をすることがある。それが経営だ。


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