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『廃墟論』クリストファー・ウッドワード(青土社)

廃墟論

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「時の廃墟」

先月のこと、ドイツのドレスデンの聖母教会の再建が完成したというニュースが流れた。式典にはメルケル首相も参列して、はなやかに祝ったようだ。写真をみると立派に修復され、周囲もぴかぴかだ。ぼくが五年ほど前にドレスデンを訪れたときは、まだ修復は始まったばかりのようにみえた。瓦礫の山に包まれて教会の残骸だけが残っていた。周囲も荒れた雰囲気が残り、廃墟のような場所も多かった。

ウッドワード『廃墟論』によると、ゲーテはこの教会からドレスデンを眺めて、ドイツでもっとも美しい都市だと言ったそうだが(p.308)、だからといって廃墟をなくして再建すればいいというものでもないだろう。東ドイツ政権は、廃墟の山を記念としてそのまま保護していたが、統一とともに再建を求める声が強くなったのだという。戦争がどのようなものであったのか、廃墟のままの教会のほうがはっきりと教えていたのではないだろうか。廃墟は時間の流れと歴史の事実について、多くのことを語るのだ。ローマのコロセウムが再建されていたら、はたして人は訪れるだろうか。

ところで廃墟を廃墟として保存し、廃墟に価値があることを考えだしたのは、イギリス人らしい。バイロンシェリーなどのロマン派の詩人たちは、廃墟のうちに自然と人間との戦いの現場をみいだしたらしい。詩人たちが好んだのは、自然の力のうちに廃屋になった家屋、壊れた橋、蔦で覆われた壁の残骸などだった。

自然の力は、人間の作為を簡単に滅ぼしてしまう。自然は自由であり、人間の「暴政」をものともしないというわけだ。「自然が暴政を破壊するときほど、その美しい姿をみせることはない」し、人工の建造物を自然が破壊する営みは、「大地」の霊が純粋さを回復する瞬間だということになる(p.107)。

イギリスのロマン派の詩人たちは、歴史的な廃墟だけでなく、人工の廃墟も好んでいた。橋はわざと壊し、板をわたしておく。そして風景全体に廃墟としての味付けをするのである。庭園を廃墟としてデザインする専門家もいたらしい。こうなるとゴシック小説の廃城好みまではもう一歩にすぎなくなる。やがてイギリスでは、いまは立派にそびえている建物が廃墟になった状態を想像して絵を描くことが流行するようになる。イングランド銀行の廃墟を描くのだ(p.240)。

廃墟は過去の痕跡を示すものだが、未来のある時点から、現在を過去すでに過去になったものとおもいなすのだ。まるでベンヤミンの天使のように、過去への目を向けながら、その廃墟を惜しみつつ、未来という時間に押し流されていくかのように。ぼくたちはたとえば山をあるきながら、廃墟と化した鉄道線路をみて、強い感傷の気持ちにとらえられるものだ。そこにかつてあった営みと、それがほろぴ去った空しさを考えるからだ。しかし未来の天使はいまのぼくたちをみて、すでに感傷と悼みの思いをあじわっているのかもしれない。ぼくたちの現在もすでに廃墟としての相を呈しているのかもしれないのだ。

書誌情報

■廃墟論

■クリストファー・ウッドワード著

■森夏樹訳

青土社

■2004.1

■383,13p ; 20cm

■4-7917-6080-8

■3200円

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