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『やさしいベイトソン』野村直樹(金剛出版)

やさしいベイトソン

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「生物+環境こそ生存の単位、それが生き延びる、考える、進化する」

 グレゴリー・ベイトソンの思考から、しばらく遠ざかっていることに気づき、あの着想の鉱脈めがけてまた潜っていきたいと思っていたちょうどそのとき、この本に出会った。

 短くて、愛想のいい顔をした本だが、ここで語られることは深く、広大だ。大学の1、2年生むけの少人数授業(うちの学部では「総合文化ゼミナール」と呼んでいる)の副読本には、もってこいかもしれない。

 カリフォルニアの海岸の森に住む、風変わりな巨体の、トナカイのような赤い鼻をしたイギリス人。ぼくがベイトソンに対してもっていたそんなイメージは、勝手に頭の中で作ったものだが、この本の著者は実際に晩年のベイトソンから教えをうけていた! およそそんなことで人をうらやんだことはないけれど、こんどばかりは、心底うらやましく思った。よれよれダブダブのシャツ姿で床に足を投げ出してすわり、鼻水をすすりあげながらイギリス訛りでボソボソと話す彼のセミナーに、ぼくも出てみたかったが、遅すぎた。ぼくがベイトソンを知ったのは1982年、佐藤良明による目が覚めるような『精神と自然』の日本語訳が出たときで、そのときにはもう、われらがグレゴリーはこの世を去っていたのだから。

 野村直樹はナラティヴ・セラピーを研究する文化人類学者、名古屋市立大学教授。コミュニケーションの病とそれからの治癒の道を、想像するに会話や身振りやそれを通じて構成されてゆく物語の分析によって、考えている人なのだろう(あくまでも想像)。

 そんな研究主題にとりくむ人にとってのベイトソンの重要性は、少しわかる気がする(本当にはわからなくても)。生物学、文化人類学サイバネティクスから、「精神の生態学」と彼が呼ぶ、それらの総合へとむかった、壮大な知的遍歴。まったく他の誰にも似ていないステップを踏み思考の舞踊をつづけたベイトソンを、著者はためらうことなく、デカルト以来最大の思想家と呼ぶ。

 精神は純粋に自立したデカルト的コギトではありえず、つねにインターアクションの中にある。コミュニケーションは、たとえば音声言語というひとつのレベルだけをとりだすことはできず、いくつものレベルをもった全体的状況の中にある。すべては(動物から草原にいたるまで)関係性においてあり、すべてがすべてに影響し合っている。すべては、また動きの中にあり、対象の動き=変化を観測する者もまた、それぞれの動き=変化の中にある。学習と進化はひとつであり、多様な関係性の中でメッセージが生成され発信/受信される錯綜体としての<環境>が、まるごとそれ自体の<精神>をもっている。ヒトが自分の精神だと思い込んでいるものは、結局、このもっと大きな生存のシステムの、流動的な一部分でしかない。(以上は、ぼくなりの見方をまとめたもので、ベイトソン先生や野村さんがそういう表現をしているわけではないけれど、そう的外れでもないだろう。)

 おもしろく読める本だ。章によっては、なぜかあの遍歴のラ・マンチャの騎士ドン・キホーテサンチョ・パンサの対話となって、コミュニケーションをめぐるわからない問答をくりひろげるのも楽しい。また<あそび>の<枠>を問題にする章では、著者の子供「トラくん」三歳が母親に対して遊びのフレームを設定したときのエピソードが語られていて、それを読んだときには突然、『精神と自然』の中でベイトソンが語っていたプールの中での自分と一頭の雌イルカのやりとりのことを思い出した。トラくんが、イルカが、相手との関係設定とコミュニケーションをめぐって、主導権を握ろうとする。それはたぶん、哺乳動物のコミュニケーションの、ある基本形なのだろう。

 本書の、心を洗われる一節のひとつに、サンチョにむかってドン・キホーテが語る次のせりふがあった。

 「近頃のモンゴルでは草原の砂漠化が進んでおるが、この国も市場経済を導入したので、街に近い草原はみながこぞって放牧して荒れ放題になった。砂地があちこち顔を出し放牧が不可能になりつつあった。そこで、研究者が中に入って放牧の場所や時間をずらすことをすすめた。そうして砂漠寸前の土地を青々としたもとの草原に戻したんじゃ。わしが驚いたのは、これがわずか三年という短い間に起きたということじゃ。この事実にわしは甚く感動した」

 「草地に戻ったのがコミュニケーションとどう関係あるんだか?」

 「あるんじゃよ、それが。自然というものは、なんと素直に反応し、応答してくるものか! ヒトは山や野原や生物という生態系と密接につながっておる。われわれのありようがそのまま自然のありようであることの動かぬ証拠じゃ」(145-146ページ)

 貨幣経済と物資の広域流通という、エスカレーションへの傾向を本質的に助長するシステムを採用して以来のヒトがずたずたにしてきた自然だって、悔い改めたヒトが別の関係性を作る努力をすれば、ただちに応答してくれるわけだ。およそそれ以外に、地球上の生命世界(バイオスフィア)にとっての生存の希望はないだろう。

 ベイトソンデカルト以来最大の認識論的転回をもたらす、といった。でもベイトソンだって、ぽつんと孤立しているわけではない。関係主義的な存在観、自他の流動と絶えざる変化のうちにある観測を説いた人は、ほかにも何人もいる。

 野村さんの見取り図にしたがえば、独自の進化理論を唱えた今西錦司、環境のネットワークに関して時代的にははるかに先行する仏典の世界、「涙には涙の理性がある」といったパスカル、「身体化された知」を強調した異端の精神科医ウィルヘルム・ライヒ、文化とはコンフィギュレーション(配置)だと見なした文化人類学者のルース・ベネディクト、ダイアロジズムの文芸学者ミハイル・バフチン、そして「対話そのものに臨床の叡智がある」と論じた家族療法の創始者ハリー・グーリシャン。

 かれらが織りなす考え方のコンフィギュレーション導きの星座として、ヒトと動植物と「われわれすべて」が住みこむ地球環境についてのヒトの思考態度を全面的に考え直す努力を、そろそろはじめなくてはならないだろう。

 けっして孤立しえない<生命>の、惑星の寿命に枠づけられているとはいえ、しかるべき配慮と努力によってまだまだ当分はつづきうるだろう生存が、ここには賭けられている。


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