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『黒田官兵衛』小和田哲男(平凡社)

黒田官兵衛

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「軍師の実像」

 2014年のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の軍師をつとめた黒田官兵衛が主人公だという。街の書店には、すでに官兵衛関連の本がたくさん並んでいる。そのなかで、本書(小和田哲男著『黒田官兵衛平凡社新書、2013年)を選んだのは、比較的短時間に官兵衛が生きた時代とその人物についての知識を時系列でわかりやすく叙述しているからである。著者は日本中世史が専門で、大河ドラマ時代考証をつとめるなど、高名な歴史家だが、絶好のタイミングで歴史物を書き下ろす才能は貴重なものである。

 歴史を語る場合、一次資料のように信頼度の比較的高いものと、そうではないものを区別する作業が必要だが、前者だけではわからないことは、ほかの資料を基に「推測」することも場合によっては役に立つ。本書を読むと、この区別をつねに明確にしながら書き進めているのがよくわかる。

 例えば、本能寺の変の第一報は俗説では明智光秀の密使が陣所を間違えて秀吉の家臣に捕まってしまったので、秀吉が毛利方よりも早くその情報を得たということになっている。その密書は『別本川角太閤記』に収められているが、文面が当時のものとは違う偽文書なので、歴史ドラマならともかく、それを信用するのは危険である(同書、94ページ参照)。

 ただ、光秀が越後の上杉景勝にも密使を送っている事実が明らかにされているので、毛利陣所にも密使を送った「可能性」はある。その密使が秀吉の探索網に引っかかり、密書を取り上げられたと考えることはあり得るだろう。しかし、これも「かもしれない」という言い方しかできないし、著者もそのように表現している。

 そもそも戦国時代は嘘の情報を意図的に流して敵方を攪乱させる手法はよく用いられたものだが、秀吉が本能寺の変を事実であると確信したのはどの時点なのか。著者は、『黒田家譜』(江戸時代、筑前福岡藩主となった黒田家が儒学者貝原益軒に編纂させた文書)の記述に基づいて、信長の側近だった長谷川宗仁からの書状からだったと考えるのが自然であるという書き方をしている。

 また、本能寺の変の第一報が届いたとき、容易に立ち直れそうになかった秀吉を官兵衛が励ました話も有名だが、近世初頭に書かれた逸話集には、「信長殿の死はめでたい」(『明良洪範』)とか、「めでたい。博打を打ちなさい」(『川角太閤記』)とか、秀吉をけしかけたような言葉が出てくる。だが、著者は、これも『黒田家譜』にあるように、「信長公の御事ハ、とかく言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ」という表現が事実に近かったのではないかと言っている(同書、96-97ページ参照)。

 だが、比較的信頼度の高い『黒田家譜』にも限界はある。例えば、官兵衛は天正11年(1583)頃、高山右近の勧めでキリスト教に入信したといわれているが、その事実は『黒田家譜』では抹消されている。家譜が編纂されたのは、江戸時代のキリシタン禁制が徹底していた頃だったので、その事実は都合が悪かったのである。家譜にも限界はある(同書、116ページ参照)。

 官兵衛は、秀吉が「天下人」になるまでの戦い(三木城の戦い、鳥取城攻め、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻めなど)において「軍師」としての才能を十二分に発揮したが、逆に見て、秀吉が官兵衛不在のときは苦戦しているのが興味深い。例えば、本能寺の変のあとの弔い合戦で光秀を破ったからといって、秀吉がすぐに天下人になれたわけではない。中国大返しをしたあと、実は、毛利氏との境界画定交渉が難航し、官兵衛がその任に当たっていたため、秀吉は官兵衛不在のまま小牧・長久手の戦いに臨むことになった。幸い、「戦闘」では徳川家康に煮え湯を飲まれたが、織田信雄との「単独講和」を結び、「戦略」的には勝利を収めることができた。だが、官兵衛がいたら、池田恒興の「暴走」を防いだかもしれない。

 官兵衛は、44歳のとき家督を長政に譲っている。しかし、秀吉は官兵衛の一般的な意味での「隠居」を許したわけではない。44歳で家督を譲るのは、「人間五十年」の時代には決して早くはなかったが、巷に流布されている俗説(秀吉が自分が死んだあと天下を取るのは、徳川でも前田その他でもなく官兵衛だといったという作り話)ほどではなくとも、自分が秀吉に警戒されていることは鋭い嗅覚で察知していたに違いない。『黒田家譜』には、次のように書かれているという(わかりやすいように、著者の現代語訳を引用する。同書、155ページ)。

「官兵衛が早くに録を譲り、官職を捨てたのは、利益をむさぼろうとする気持ちが薄く、物ごとにとらわれないだけでなく、秀吉が官兵衛のもつ大志と、武略をおそれていることに気がつき、また、秀吉のまわりの家臣たちにも官兵衛の功名英才ぶりを妬む者がいるのを知り、そしられるのを逃れるためで、これは身を保つ立派なことである。」

 官兵衛は、「黒田如水教諭」という遺訓を遺しているが、そのなかで注目すべきは、「神の罰や、主君の罰よりも、臣下百姓の罰の方が恐ろしい」という趣旨の文章があることである(同書、195ページ参照)。また、「上に立つ者として、威、すなわち威厳は必要だが、ただ怖いだけの威厳ではだめで、家臣の諫言を受けいれる度量が必要なこと」も述べられているという(同書、196ページ)。

 信頼に足る歴史資料を尊重しつつ、それだけでは歴史の真相に迫れない部分はその他の資料のなかで蓋然性が最も高いものを採用し補完していく。著者の他の多くの著作と同じように、本書もそのような方法論で叙述された啓蒙書だということがわかるだろう。官兵衛の「軍師」というよりも「人物」そのものに関心のある読者にも参考になるだろう。

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