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『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ イングリード・フックス(集英社)

ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き

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「ウィーン楽友協会の200年」

 ウィーン楽友協会といえば、その合唱団を20世紀の名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンベートーヴェンの第9などの名曲の録音に起用したことが思い浮かぶが、本書(オットー・ビーバ、イングリード・フックス『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』集英社新書ヴィジュアル版、2013年)は、同協会が1812年の創設以来200年の歴史を誇る組織であることを丁寧に解説した好著である。

 1812年11月29日、ウィーン近郊のアスペルンの人々を助けるための慈善演奏会が開かれた。その3年前、ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がヨーロッパ中に侵攻していたが、そのフランス軍オーストリア軍がアスペルンにて迎え撃ち、勝利を収めた。だが、勝利はしたものの、アスペルンの住人たちは戦火によって被災し、まだ助けを必要としていた。そこで、アスペルンの被災者たちを支援する大規模な慈善演奏会が開かれることになったのである。

 この演奏会にはおよそ600人の演奏者が参加していたが、この多分に愛国的な発想に基づく演奏会の開催が楽友協会の創設へとつながっていく。皇帝フランツ一世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けたことも幸いしたが、1814年、有名なウィーン会議にて演奏会を開いてほしいと依頼されたことも、さらにこの協会の認知度を高めた。

 楽友協会の会員には、三つのタイプ(「上演会員」「支援会員」「名誉会員」)があった。上演会員は協会主催の演奏会でオーケストラや室内楽のメンバーとして登場する会員であったが、協会の創設以前からウィーンではディレッタントの集まった音楽愛好協会の活動があったので、プロの作曲家シューベルトが上演会員に加わろうとしたときひと悶着があった。この問題は、結局、「作曲」と「演奏」は別という理由で解決されたが、もともと「ディレッタント」とは「優れた芸術的才能を具えながらも、芸術を愛するがゆえにあえてそれを生業としなかった人々」のことを指しており、「当時は肯定的で称賛のこもった言葉」だったことを押さえておきたい(同書、14-15ページ)。

 その後、楽友協会の活動は「演奏会」「資料館」「音楽院」を三本柱として展開されていくが、その頃の活動の拠点は1831年にオープンした楽友協会の初代会館(これは「旧会館」と呼ばれるが、現在は残っていない)であった。だが、1848年にヨーロッパ中に革命の嵐が吹き荒れ、楽友協会の活動もウィーンの三月革命以降10年間ほどすっかり沈滞した。

 ようやく1857年になってチェルニーの財産が協会に遺贈されたのをきっかけとして、再出発することができるようになった。さらに皇帝フランツ=ヨーゼフの好意によって「新会館」のための土地が寄贈された。新会館の設計はデンマーク出身のテオフィル・ハンゼンが担当し、1870年1月5日、皇帝臨席の下、竣工式が行われた。新会館、大ホール、小ホール(現ブラームス・ザール)が備わった立派な建物であった。

 現在、日本でも有名なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、楽友協会会館の大ホールを借りて予約定期演奏会を開いているが、著者たちは読者が混乱しないように、「ウィーン・フィル主催の予約定期演奏会と、ウィーン楽友協会が主催しウィーン・フィルが登場する演奏会」とは全く別だとことわっている(同書、35ページ)。

 協会専属のオーケストラの歩みは少々複雑である。19世紀後半、ヨハン・ヘルベックが楽友協会芸術監督だった時代、オーケストラの組織改革が断行され、1900年、プロの「ウィーン演奏協会管弦楽団」が創設されたが、そのオーケストラのメンバーになれなかったディレッタントたちのためには、「楽友協会オーケストラ部」と「楽友協会合唱部」が設立された。二つとも今日まで活動を続けているアマチュアの団体だが(後者がカラヤンがよくレコーディングに起用した「楽友協会合唱団」)、肝心の演奏協会管弦楽団のほうは、第一次世界大戦後、ウィーン交響楽団として生まれ変わっている(同書、90ページ参照)。序にいうと、音楽院も1909年に財政難のため国に譲渡された。

 楽友協会は、ナチス・ドイツによるオーストリア併合(1938年3月12日)によって最大の危機を迎える。「楽友協会」の名前だけは存続したものの、組織は有名無実化し、ベルリンに本部のあるナチスに完全に牛耳られることになった。楽友協会に保管されていた古い楽器のコレクションも、強制的にウィーン美術史美術館に移し替えられた。資料館を国立図書館に統合しようという計画もあったが、幸いにして、第二次世界大戦ナチス・ドイツが敗れたので難を免れた。だが、戦争末期、楽友協会の南側が砲撃され、大きな損傷を被った。大ホールの中にも砲弾が飛び込んだが、不発弾だったため大ホールの崩壊は避けられたという(同書、39-40ページ参照)。

 戦後の復興の歩みを読んでいくと、フルトヴェングラーカラヤンという二人の巨匠の名前と彼らの間の微妙な関係(というより「確執」というべきか)が露呈されるが、そのことは本筋とは関係がない(注1)。要するに、楽友協会の「演奏監督」をつとめていたフルトヴェングラーが多忙に過ぎて協会の仕事に多くの時間を割くことができなかったので、カラヤンが手を差し伸べてくれたのだが、両者の間の人間関係が必ずしもうまくいっていなかったので、1950年のバッハ・フェスティヴァルで誰が『ロ短調ミサ曲』を指揮するかなどでいざこざがあったらしい(結局は、カラヤンが指揮した)。

 カラヤンは、フルトヴェングラー辞任後の楽友協会演奏監督の後任におさまり、さらには「終身演奏監督」というポストの座も射止めた。その後、カラヤンは、周知のように、フルトヴェングラー亡き後のベルリン・フィルの音楽監督やウィーン国立歌劇場の総監督にも就任し、「帝王」と呼ばれるようになるが、ウィーン国立歌劇場と一時「絶縁」してからも、楽友協会とは良好な関係を保ち続けた。著者たちは、次のように言っている。

カラヤンは二度とウィーンに戻ってこないのではないかという憶測も立ちましたが、ウィーン国立歌劇場と楽友協会とはまったく別の組織ということで、彼は楽友協会演奏監督のポストについては終生大切にし、協会合唱部との共演も頻繁におこなってゆきました。なおカラヤンの死後、楽友協会の演奏監督となった人はまだ一人もいません。それほどまでに彼は、余人を以て代えがたい存在だったのです。」(同書、97-98ページ)

 楽友協会は、2004年、会館の地下に新たに四つ目のホールを造った。クラシック音楽ばかりでなく、現代音楽やジャズの上演、音楽と文学のコラボレーションなど、新機軸の企画にも取り組んでいる。創立200周年(2012年11月29日)には、ニコラウス・アーノンクール指揮による演奏会(ヘンデル作曲、モーツアルト編曲による『ティモテウス あるいは音楽の力』、200年前と同じ曲目)がおこなわれた。

 楽友協会の創立から200年にわたる歴史には、ブラームスブルックナーマーラーなどの作曲家や当時の有名指揮者などがたくさん登場する。楽友協会の歴史、そしてウィーンの音楽界に関心のある読者には楽しい読み物となるだろう(注2)。

1 二人の間の関係に関心のある読者は、中川右介カラヤンフルトヴェングラー』(幻冬舎新書、2007年)を参照のこと。

2 ウィーン楽友協会の公式ホームページを以下に記しておく。

http://www.musikverein.at/

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