書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『鉛の兵隊』(en-taxi 2005 SPRING)

01zou

[劇評家の作業日誌](2)

en-taxi」という雑誌をご存じだろうか。気鋭の評論家・坪内祐三福田和也、作家の柳美里らが責任編集している「超世代文芸」のリトルマガジンだ。権威的で分厚く重い雑誌では時代の深部に届かない。タクシーの中で、まるで走り読みするかのような速度感で文章は流通する。その分、読み捨てられることも承知の上で。この雑誌の編集意図はおおむねこうしたものではないだろうか。ところで今号(SPRING 2005)では特別付録に唐十郎の新作『鉛の兵隊』が付いている。小振りな文庫版の形式だが、これが何ともぜいたくで洒落ている。

ちょうど唐十郎率いる「唐組」が4月15日、場所は大阪城公園の広場で初日を迎えた。その二日前、唐氏はこの4月に近畿大学文芸学部の客員教授に就任し、「初講義」が行なわれたばかりだ。横浜国大を3月に退官した唐氏は、今度は大阪にも活動半径を広げる。そんなこんなの慌しい時節に唐組は大阪で初日の幕を開けた。

今回のテーマは「スタント」である。映画の危険なシーンで代役を演じるスタントマンの「スタント」だ。つまり「代役」「身代わり」。人は他人のために何ができるか。他人の身代わりになることで、何が代償として支払われるのか。これを国家レベルに拡大してみれば、日本という国は別の国の「身代わり」を演じることで、存在しているのではないか。そう考えると、この言葉はなにやら現代社会のキーワードのように思えてくる。演技とはそもそも、誰かに代わって他人の人生を演じることだ。他者とは地獄なりと喝破した詩人がいたが、底なし沼の地獄に這い下りていくのが演劇だとしたら、唐十郎は演劇の本質的にして原理的な問題−−他人を演じる−−を通じて、現代社会の深部に錘(おもり)をたれようとしている。

戯曲の言葉とはつまるところ「音」である。言葉を意味に還元してしまうと、言葉の持つ無意味な豊穣さを取り落としてしまいかねない。初日の舞台を見て、わたしは改めてそのことを痛感した。今回の作品は唐氏には珍しく北海道を舞台にイラクに派兵された自衛隊員を素材にしている。そればかりではない、北海道にまつわる伝説−−旭川第七師団の幽霊部隊−−が随所に使われ、その背後に「アイヌ」があることは言うまでもない。

戯曲で時折用いられるアイヌ語は、舞台上で俳優の肉体を通すと、実に淡い音色をもって客席に届けられる。宮沢賢治も擬音語を駆使して独特の音色を舞台の上に奏でた。だが濁音が多用された賢治に比べると、唐版は撥音がきれいで、とくに「パピプペポ」が耳に心地良い。今回は事前に戯曲に目を通していたのだが、この「音」に神経は行き届かなかった。字面に目を奪われるあまり、わたしはそれをすっかり読み飛ばしていたのである。

北海道を素材にすることで、これまで唐作品とずいぶん彩りが違うことも指摘しておきたい。一言でいえば、大地に一人で行く、といった風景が否応なく舞台の背景を形づくってしまうのである。北海道網走出身の稲荷卓央が、主役の二風谷ケンを演じて大車輪の活躍を見せたことも、そのことに与って力あったろう。俳優の肉体というものは不思議なもので、言葉は発話者によっていくらでも変奏される。そして彼だけが持つ風景によって、言葉は幾倍にも増殖するのだ。純情で初ぶな役どころの多かった稲荷だが、今回は違った。とくに大阪城を借景に去っていく途中で彼は誰かに呼ばれたかのように振り返る。けれど、それは幻聴でしかなかったのかもしれない。舞台上では彼を誘うようにヒロインがバイオリンを奏でる。だがそれは、逆に彼らを引き離す。この無限の遠近感はちょっと近来にない絶品のラストシーンだった。求めつつ合体するのでなく、むしろ引き離されていく絶望感。そこに時代の酷薄さを見たのはわたしばかりではあるまい。稲荷卓央はすでに現代演劇の俳優でも屈指の名優の一人だが、この舞台でまた一つスケールを増した。

現在の唐組は俳優の宝庫である。ここ二年ほどで急速に擡頭してきた丸山厚人、懐深い演技で唐組の重要なバイプレイヤーとなっている鳥山昌克。久保井研や辻孝彦らはいずれも曲のある役どころで独自の境位を獲得している。女優の揃い方も豪勢だ。藤井由紀や赤松由美はすでに二大女優といっていい風格を身に付け、そして今回は謎の占い師を演じた真名子美佳は大きなまなこがこぼれ落ちそうな名演技を見せた。状況劇場時代を通じても、これだけ女優の層が厚かった時代もなかったのではないか。こうした充実した役者陣を思うがままに使いこなす唐十郎はさながら「按配師」であり、サーカスの「調教師」よろしく俳優たちを自在に配し、言葉の「錬金術」をもって詩的世界を仕立てていく。そればかりか、ここぞという場面では、唐は例の人懐っこい表情を浮かべて、客席の視線をかっさらってしまうのである。

唐氏は初講義で、「カエルが鳴くからかえ〜ろというのどかな歌があるが、では帰る家のない者はどこに帰ればいいんだ」とイチャモンを付ける「日本演劇界の餓鬼」と自己紹介した。唐氏の戯曲は人と人の売り言葉と買い言葉の対話から始まり、そこに生じた関係がどこまでもうねって、次第に抜き差しならぬ泥沼に陥り、人間関係が錐揉み状に下降していく。そして、ついには底が抜けてしまうといった按配だ。しかし、底が抜けたその先には、案外ピュアな世界がぽっこり広がっていくのだ。それがテント幕を破って現出する異世界に他ならない。戯曲の行間を、唐組の役者たちの面相を思い浮かべて読み込んでいくと、字面の背後に紅テントの空間が立ち現われてくるのである。その瞬間、文字通り、文学は演劇になる。

唐十郎の劇はつねに役者の想像力とともに物質化される。戯曲台本は文学である以上に、生ものの肉体を鼓舞し挑発する触発剤でもあるのだ。