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『チェーホフ』(岩波新書)

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[劇評家の作業日誌](5)

チェーホフの魅力とは何だろうか? 日本人の読者に幅広く親しまれ、現在でも多くの上演が行なわれているチェーホフとはいったい何者か。昨年が没後百年に当たり、チェーホフ関連の書籍が数多く出版されたが、なかでも暮れも押し迫った頃に出された本書は屈指の読み物になっている。

 ところで昨年の舞台のなかで出色だったのは、ロシア・マールイ劇団の『かもめ』だった。この舞台は円形の舞台を3つのパーツに区切り、それが回転することで、隣り合った場面が一連なりで見えてきたことだ。登場人物間の意識の流れが舞台空間の仕掛けでこんなにも巧みに表わされた舞台をわたしは知らない。チェーホフの言葉はロシア人俳優たちの神経の襞にまで浸みわたり、チェーホフ劇の醍醐味が皮膚感覚として伝わってきた。ここで本書の『かもめ』についての記述を読んでみよう。(160〜166頁)

 この『かもめ』はよく言われるように、シェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにしている。トレープレフとアルカージナの母子関係はそのままハムレットと母ガートルードと相似形であり、母の恋人トリゴーリンという作家は父を殺し現王に収まっている叔父のクローディアスに相当する。さらに、劇中にしばしば引用される『ハムレット』のもじりは、両者を否応なく意識させるのである。

 『ハムレット』の発端は先王ハムレットの亡霊の言葉だった。一種の予言としてハムレットの行動を方向付けた。ならば『かもめ』ではそれはどう扱われているか。それは作家トリゴーリンがしきりに手帳に書きつける創作メモである。女優志願のニーナに向って彼はこう言う。

 「ほんの短篇の題材です。湖のほとりに、ちょうどあなたのような若い娘が、子供の時から住んでいる。かもめのように湖が好きで、かもめのように幸福で自由だ。ところが、ふとやってきた男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう。ほら、このかもめのように。」(本書165頁)

 アポロンの神託に拘束されたオイディプス王は、この「言葉」−−おまえは父親を殺し、母と結婚するだろう−−から逃れるための行動が、結果として最悪の事態を招いた。ハムレットが亡霊の「言葉」を実証するために、劇中劇まで仕組んだ。同様に『かもめ』もまた「言葉」−−この場合は創作メモ−−によって登場人物たちは破滅の道へ転落していく。

 『かもめ』と『ハムレット』をつなぐのは、第一幕で野心に燃えたトレープレフが「新しい形式」を求めて、母親を中心とする旧弊的な芝居人に挑む実験的な舞台シーンだろう。『ハムレット』にも劇中劇があるが、いずれも演劇によって演劇を批評する、あるいは演劇を批判することを「形式」化している。浦氏がこの作品を「メタ演劇」と言うのも、そのあたりのことを指している。

 両者の比較で見落とせないのは、ハムレットが絶対的な主人公、すなわち彼の目を通して劇世界が展開されていくのに対し、『かもめ』のトレープレフはそうではないという指摘だ。それを著者は「主人公の解体」というフレーズで語っている。「ここに登場する人物は、特定の視点から眺められるのではなく、さまざまな視線の交錯のなかでながめられる。つまり「中心」が成立しない。」(163頁)

 ハムレットは「中心」だったが、トレープレフは「不在の中心」なのだ。近代劇(戯曲)を解体し、「現代劇(戯曲)」を開始したと言われるチェーホフの独自性はここにある。著者はこう言っている。「己を主張せず、ひたすら自己を消去する−−これがチェーホフの姿勢だった。」(「はしがき」より)

 自己を消去すれば必然的に「対話」も破壊される。語るべきなにものも持たないからである。「一見『対話』が成立しているようでいて、その話は微妙にすれちがう。ひょっとして対話自体が成立していないのではないか。『三人姉妹』(1901)はその見本のような作品だ。」(179頁)

 あるいはこういう記述もある。「一見にぎやかなチェーホフのダイアローグはむしろ、人びとの孤独や孤立、通い合うことのないこころを際立たせる。」(182頁)

 誤解や言い間違い、対話の亀裂や空隙−−20世紀後半に出現する「不条理劇」の先駆的断片がすでに半世紀前のチェーホフに兆していたことは驚くべきことである。チェーホフが「喜劇」というジャンルにこだわり、後年、彼の劇のドタバタ性が指摘されるようになったのも、「二十世紀の不条理演劇を予告していた」からである。

 こうした演劇論と同様に興味深いのは、チェーホフの人物評である。医者という職業の傍ら、作家生活を続けたチェーホフはなによりも職業的な作家とは違った場所で芸術に取り組んでいた。小説であろうが、戯曲であろうが、彼にとって、肩肘張った作家−−ドストエフスキートルストイなど19世紀の大作家たち−−とは別に「ユーモア」と「短篇小説」を得意としていたのだ。のみならず、劇場文化という場所は、彼にとっての娯楽、楽しみに他ならなかった。チェーホフが使ったあまりにも有名なレトリック−−「医学は正妻、文学は愛人」(1888年、スヴォーリンへの手紙)は彼の姿勢がよくうかがえる。そのことを通じて、チェーホフは「既成の文学を壊すことしかなかった」(4頁)のである。

 チェーホフは無類の皮肉屋である。「ほとんど『否定』でしか語りえないのだ」(91頁)もまた彼の真髄をついている。そして劇中に出てくる「退屈さ」。個人的なことを言えば、わたしは中学生の頃、初めてチェーホフを手にとった。しかしとても読み進められなかった。その理由を今から分析すれば、行動しないで議論ばかりしている登場人物たち、しかもその議論も、益体のない、もったいぶった、まさに「余計者」たちの話に、とてもついて行けなかったからである。そのことの意味や意義を理解するのに、わたしは年数を数えるしかなかったし、演劇史的にいえば、ベケットの登場を待たねばならなかったのである。しかしこの「余計者」は案外、現在の若者たちにしっくりくる存在かもしれない。「才能と能力がありながらそれを生かせず、社会に背を向け、斜に構えてしか物事を見ることができなくなった人物」(18頁)とはまさに現代のフリーターのそれではないか。
そんな連想を許容するのも本書の広がりだろう。

 チェーホフは非情である。人間をありのままに見つめ、それを皮肉をこめて描いた。そして安易に救いを書かなかった。その「ありのまま」が結果として、未来を先どってしまったのだ。「これまで自明とされてきたもの、当たり前と見えたものの意味が突如崩壊する。」(107頁)その結果、「いちばん身近な『私』すら失われてしまう」のだ。

 中心が喪失した現代劇の先駆としてチェーホフが19世紀を跨ぎ、20世紀演劇を方向づけた。このチェーホフ的世界は21世紀の今日も十分アクチュアルなのである。