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『遺言-アートシアター新宿文化』葛井欣四郎 聞き手=平沢剛(河出書房新社)

遺言-アートシアター新宿文化

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[劇評家の作業日誌](42)

この一年出会った本のなかで、時代の「証言」という性格を帯びたものに心が動かされることが多かった。今、何とかして語っておかねばならないことがある--そうした気迫が書物という形をとって伝わってきたのだ。


 

 1960年代から70年代にかけて、映画や演劇で最先端を走った「アートシアター新宿文化」という劇場が存在した。一般には上映されにくい海外の芸術系映画や若い映画作家たちの意欲的な作品、小さな実験映画が掛かり、演劇公演も頻繁に行なわれた。いわば「前衛芸術」のメッカだったのが、この劇場である。

 当時の支配人だった著者・葛井欣四郎氏は三重県伊勢市の呉服屋を営む家庭に生まれた。終戦後、早稲田の高等学院に進学し、東京暮らしが始まるが、都会の文化の象徴が映画だった。そこで、彼はなるべく映画に近い仕事をしようと思い、三和興行という興行会社に就職する。その彼が開場したばかりのアートシアター新宿文化の運営を任されるようになったのが、1962年である。同映画館では『尼僧ヨアンナ』を皮切りに約200本の映画を上映し、1974年12月、13年間の幕を閉じた。その間、彼は劇場のプログラムを考え、配給会社であるATGと協力して運営を支え、劇場のイメージづくりのためポスターや内装工事まで手掛けた。それは一個の劇場の支配人という仕事をはるかに逸脱・凌駕したものだった。今でいえば、文化の「仕掛け人」、総合プロデューサー的な役割を果たしていたのだ。

 三島由紀夫が小説を書く傍ら舞踏や映画に関わり、また『近代能楽集』にもタッチしていく。かと思えば、大島渚白土三平の原作漫画『忍者武芸帳』を映画化する。足立正生の実験映画がゴダールの観客と響き合う。昼の映画と夜の演劇をかけ持ちしながら、葛井氏は昼夜を撤して、この動きに関わっていった。40歳前後の10年ほどの濃密で激動の日々である。そこで出会った芸術家たち、新鋭からベテランまでの映画監督、画家、音楽家、歌手、写真家から劇場人に至るまで、実に多彩な人たちとの出会いと思いを綴ったのが本書である。若い映画批評家である平沢剛氏が巧みに著者から言葉を引き出している。

 この映画館を特徴づけたのは、やはりATGの封切り館という性格だろう。ATGとは、大手の映画会社、いわゆる五社を辞めて独自の映画をつくり始めた若い映画監督のための「配給会社」だった。当時、「一千万映画」と呼ばれたように、低予算で製作する芸術映画を擁護するための運動体であり、その常設館が新宿文化だったのだ。

 自主独立系の表現がこの時期一斉に登場したことは偶然ではない。音楽ではフォークソング、建築、美術でも磯崎新赤瀬川原平らが登場してきた時期である。多くのアーティストが集まり、山下洋輔がピットインを根城に活動していた。その中心が新宿であったのは、やはり政治の季節と連動していたからだろう。「若さ」と「新しいもの」に挑む冒険心が同時代を横でつないでいった。そのシンボルがこの「アートシアター新宿文化」だったのだ。

 では葛井氏は、風俗と紙一重のこの文化の運動をどう考えていたのだろうか。例えば、1967年には、通りを挟んで向こう側には、唐十郎率いる状況劇場が紅テントを花園神社に張っていた。いわゆる「アングラ」の始まりだ。彼は、唐の活躍を傍目で見ながら、彼を自分の劇場に呼ぼうとはしなかった。唐らの表現は前衛ではあったが、同時に大衆性も帯びていた。これが当時支配人だった彼の考える「前衛」とはズレがあったのだろう。「芸術はすべて実験である」(68p)という岡本太郎の言葉を引くまでもなく、彼の意識には、大衆人気への違和感があったのかもしれない。このことはここで上演された舞台の傾向からもはっきり読み取れる。

 アートシアターが演劇公演を始めたのは1963年である。始まりは「新劇」だった。葛井氏は民芸の宇野重吉にプログラムの責任者になってもらいたいと考えるほど、入れ込んでいた。これは意外だった。なぜなら、宇野は新劇の中心人物であり、小劇場運動にとって敵対的な人格でもあったからだ。 「アングラ・小劇場」という運動が起こる前夜に、葛井氏は、大島や篠田、吉田らに対応する人材を演劇界で誰に見ていたのか。まだはっきり見定められていなかったのが正直なところではなかったか。ファンではあったものの、宇野重吉はもう十分大家である。そのなかで唯一、新しい趣向を持った者として寺山修司を発見していた。だが彼は純粋の演劇家というより、映画もつくり、何よりエッセイスト、文化人として一家をなしていた。

 

 当時、分裂を繰り返していた新劇内部も、実は混乱の極みだったのだろう。文学座から福田恆存芥川比呂志らを引き連れて脱退し、後に劇団雲(現在の昴の母体)を結成し、実験的なことをやりたいといってこの劇場に目をつけたのだ。アメリカからの留学帰りの荒川哲生は、エドワード・オールビーの『動物園物語』を紹介し、これがヒット作になる。ニューヨークのオフかオフオフ・ブロードウェイで話題になっている新鋭戯曲が彼によって紹介されていくのである。いわゆる「不条理劇」が当時の劇界を席捲していくこととこれも符号するだろう。だがそれは、まだ新劇内部での「実験」、本公演にかかる手前の 「小劇場」公演に過ぎなかった。

 

 小劇場派としては、早稲田小劇場の鈴木忠志別役実の『門』をこの劇場で上演している。早稲田に自前の小劇場をつくる直前で、一種の「前哨戦」(129p)だったのだろう。高級志向の前衛あるいは実験が一度は登場してみたい劇場、それがこの劇場の性格だったのだろう。早稲田小劇場はその前に俳優座劇場で公演しているくらいだから、その頃はまだアングラ・小劇場と新劇の隔たりはなかったのかもしれない。

 

 新劇の中の「前衛」の部分と、その後の小劇場運動の良質な部分が相乗りしていた。呉越同舟というより、共存していたのである。両者が明確に岐れていくのは、政治の季節が沸騰するあたりからだろう。

演劇公演としての劇場の性格をはっきり決定づけるのは、清水=蜷川コンビが登場する1969年まで待たねばならなかった。その間はまだ固定したイメージを持たなかったし、演劇界も明確な対立点が見えなかったのである。

 1973年までの5年間、「アートシアター新宿文化」では、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の伝説的な舞台が上演されていた。1969年の『真情あふるる軽薄さ』は蜷川の初演出であり、その後、『泣かないのか? 泣かないのか1973年のために?』まで毎年恒例になった現代人劇場、後に櫻社の公演が続いた。当時の新宿は風俗と政治の最前線であり、何かが毎日のように起こり、衝突を繰り返していた。まさに文化や芸術が胎動していく坩堝に他ならなかった。この劇場について葛井氏はこう言っている。

 「アートシアターは路面劇場でしょう。見終わって外に出たときにね、その雰囲気はすごくあったんですよ。現在とは状況が違いますからね。まだ、71年までは。街は狂気と殺意に満ちてました。そして何でも許される解放区だった。蜜と毒があふれていました」(286p) 1970年に高校生になったわたしは、その前年くらいからこの劇場で、大島渚監督の『少年』、篠田正浩監督の『心中天網島』、吉田喜重監督の『エロス+虐殺』などを見はじめた。ATG映画の最盛期に、ミドルティーンからハイティーンになろうとしていたわたしは幸運にも立ち会うことができたのだ。同時に、ロベール・ブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』、エイゼンシュテイン『十月』、サタジット・レイ『大地の歌』という映画も封切時に見た覚えがある。一方、地下の蠍座では、ゴダールの実験的映画も見た。フーテンやサイケデリックという言葉を地で行っている人たちになまで出会い、眩しい大人の世界の入り口に遭遇したのも、この小さなスペースだった。

 だが、1969年から73年までの都合5年間、この劇場で上演された演劇公演は見逃している。夜の9時から開演された公演に立ち会うには、当時のわたしは幼な過ぎ、成長が間に合わなかった。映画に比べて演劇は、もう一段階上の「大人」の文化だったのである。 

 葛井氏には、かつて『消えた劇場 アートシアター新宿文化』という著書があったが、たしかこの連載のタイトルは「60年代・激動の小劇場運動史」といった副題が付いていたように記憶している。まさに「劇場」が文化や芸術の出会いの受皿になり、そこに集結した者たちが胎動期を経て、やがてさまざまな領域に跳び出していった。「劇場」とはいつでもそうした者たちの記憶だけの残して、跡形もなく消え去っていくものなのだ。

 つい先般、新宿コマ劇場の最終公演が行なわれた。わたしはその公演に立ち会っていて、総立ちの観客が熱い拍手と声援を送り、幕が下りても、幾度となく幕を引き上げ、劇場の最期の息を引き取らせまいとする場所を目撃した。

 「遺言」とはずいぶん後向きのタイトルに思えたが、主語はむしろ劇場自身なのかもしれない。だとすれば、「消えた劇場」「消えた文化運動」を永遠に語り継ごうという遺志をこそ読み解くべきなのだろう。


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