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『土方巽 絶後の身体』稲田奈緒美(NHK出版)

土方巽 絶後の身体

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「[劇評家の作業日誌] (44)」

昨年は暗黒舞踏創始者土方巽の23回忌だった。また彼の舞踏の出発点を1959年の『禁色』初演とするなら、今年は「暗黒舞踏50年」に当たる。いろいろな節目になる時機を得て刊行されたのが、本書『土方巽 絶後の身体』である。


 一言でいえば、手間暇かかった労作だ。594頁という大冊はだてではない。それだけ時間と労力をかけている。著者があとがきで記しているように、最初のインタビューを開始してから8年が経過し、多くの証言を集めた評伝が完成した。

 著者は1962年生まれ。彼女が成人した頃には、土方は踊りの一線から引いていた。

したがって著者は土方の舞台を直接見ていない。しかし「見ていない」ことはハンディにならず、むしろ対象から距離をとれた分、偏った感情に左右されない客観性を備えている。これが本書を特徴づける第一の要因だ。土方への一方的なオマージュや体験に過度な思い入れを持つのではなく、外側から土方にアプローチする独自のポジションに著者を立たせている。

 著者はバレエ、モダンダンスなどを幼少時から習い、自身の中にも「踊り」の感覚は具わっていた。その「内臓感覚」をベースに、見たことのない土方舞踏に迫っていく。これが第二の特徴と言えるだろう。舞踏というものの本質を、ジャンルに還元するのではなく、もっと広く、「生きること」全般にまで拡大していけるのは、生活に根ざした身体感覚があるからだろう。こうした態度は、知的な言説に集約してしまうことから免れる。哲学的、文学的、美学的言説にまぶされがちだった土方舞踏について、平明で簡潔な文体で記述することを可能にしたのも、ここに要因がある。

 本書を構成している多くの関係者のインタビューは壮観だ。名を列挙すれば以下のようになる。赤瀬川原平、厚木凡人、石井輝男、加藤郁乎、唐十郎、谷川晃一、中西夏之細江英公松岡正剛、松山俊太郎、麿赤兒、元藤燁子、横尾忠則、吉江庄蔵、吉増剛造、ヨネヤマママコ……。この他すでに鬼籍に入った者たちの言葉も多く集められている。澁澤龍彦種村季弘をはじめとして、三島由紀夫が土方の後ろ盾になっていたことは、この時代の文化の局面をよく切り取っている。

 この本の魅力の一つは、六〇年代の「芸術家共同体」をよく伝えていることだ。その中で三島の位置が抜きん出ていたことは、改めて印象深い。誰もが三島の存在を意識し、彼の発言と行動を気にしていた。土方は客席に三島の姿を発見すると、安堵したという。土方が舞踏を名乗る最初の作品が、三島原作の『禁色』(59年)であったこと、しかもそれは作者に無断で行ない、これを機に三島と知己を得られるのではないかという思惑があったこと。いずれも知略家土方巽の一面を物語るエピソードだ。

 同じく、澁澤との出会いも格別のものがあったろう。それを証拠に土方の葬儀委員長は澁澤が務めている。彼は当代きっての大インテリであり、工業高校卒の土方が対等に付き合うには、いかにも心許ない。しかも澁澤は東京生まれで良家の出である。そこだけ見れば、ナイーヴな芸術家を知的な批評家が庇護する典型的な関係に見えなくもない。だが実際はそうではなかったようだ。

「……土方は、澁澤や三島の影響を受けているが、一方的な受け売りではない。三者三様

の思想と言葉、それを裏付ける知識と経験、肉体と舞踊についての刺激に満ちた交歓が盛んに始まっていたのである。土方は知識の上で彼らに劣っていることは明白であったが、彼ら東京育ちの身体的に脆弱な知識人、身体性の希薄なエリートに対して、かつて澁澤を“白い人”と評したように、厳しい自然と労働に対する無知を指摘し、自らの経験と対立させている」(104頁)

 三島も含めて、澁澤、土方の三者の関係は対等で相互的であり、ある意味で理想的な知と芸術の交合に映し出されてくる。

 こうした芸術家共同体の集約点を著者は次のように的確に記している。

「世間も家族も時間も意に介せず飲み続けていた彼らは、前衛芸術を通して繋がるアウトロー、似た者同士のところがある。それは楽しく、愉快で破天荒な関係だったのだろう。しかし同時に、それぞれが才能豊かな『一匹狼』であり、決して仲良しグループの馴れ合い、群れ合いではなかった。むしろ異質な者同士であり、最大の理解者であると同時に、最も手強い批評家でもあったのだろう」(151~2頁)

 もっともこうした関係は長続きしないのは必定だ。別れは唐突にやってくる。その決定的事件は、三島由紀夫自衛隊乱入と割腹自殺であろう。1970年11月のことである。横尾忠則は「三島の死と同時に(前衛共同体は)バラバラになった」と語っている。文明発展の象徴、大阪万博が開かれたのが同じ1970年であり、2年後には連合赤軍事件が起こった。志を同じくした共同体は永続せず、やがて暗澹のまま崩壊していく。

 本書の構成で注目すべきは、歴史の編年体土方巽の活動を跡付けていることである。彼の秋田での生い立ちに始まり、秋田工業高校時代のラグビー部のエピソード、モダンダンスとの出会いから上京してクラブに潜り込み、やがて『禁色』にいたる舞踏創生の記述。この1959年をもって、「暗黒舞踏元年」と呼ぶことも可能だ。

 土方の出世作は、『土方巽と日本人--肉体の叛乱』である。1968年10月、日本青年館ホールで上演された。この公演は一種の「伝説」にまでなっているが、「『肉体の叛乱』がなければ、舞踏は舞踏にならなかった。モダンダンスの一種の突然変異、変種で終わっていたと思います」(287頁)と芥正彦は語っている。この作品は一般に『肉体の叛乱』として知られているが、これはあくまでサブタイトルであり、正式には『土方巽と日本人』である。土方は日本人であると同時に、その外部者でもあった。彼は醜悪な肢体をさらすことで、日本人の意識に揺さぶりをかけた。

 三つめの代表作は、1972年『土方巽燔犠大踏艦・四季のための二十七晩』であろう。土方は自分の舞踏の体現者として芦川羊子を見出し、やがて土方は舞台から退いて、振り付け家に転身していく。東北の秋田に生まれた土方は、後年「東北歌舞伎」を提唱し、そのローカリティを積極的に打ち出した。だがそれは固有性、個別性であるとともに、世界中に散布する「土方巽なるもの」を探ろうとした試みであろう。「舞踏とはいのちがけで突っ立っている死体である」とはつとに知られる土方巽の名文句だが、この「土方巽なるもの」は舞踏の真髄を考えさせる。

「土方にとっての舞踏の身体とは、ダンスのみならず日常の規律化された身体からも逸脱し、解体することによって獲得された、新たなる身体感覚と操作のメカニズムによって組み替えられた身体でもあるのだろう」(540頁)

 これもまた著者の内臓感覚が言わしめた言葉である。

 著者同様、わたしもまた土方の舞台を直接見たわけではない。だが幾度か彼のシンポジウムに参加したことがある。土方の語り口は独特で、訥弁のなかに身体からボソリと引き出される言葉があった。

「この頃、土方の存在は、現代詩の詩人の間で有名になっていた。それは第一に、前衛舞踏家としてだが、もう一方で、土方の独特の言語感覚、詩人のような言葉遣いに魅了された人が少なからずいたためだ。」(233頁)

 後に彼の著書『病める舞姫』を読むと、この語り口は文体そのものであり、発想の飛躍が文体をつくっていることを知った。彼の言葉は、肉体から搾り出されてくることに特徴があった。

「海」の絵と「うみ」という音から、同音異義語の「膿」を連想し、「痒み」を記憶の中から呼び起こす。それが「掻く」という行為に結びつき、その動作をイメージの中で反復することによって、「体中の光」へと意識が向かっていく。そのようなイメージの自由な飛躍を、土方は行っている。……連想が言葉のイメージだけに留まらず、聴覚・触覚を通して身体感覚に結びつき、そこから行為・動作の記憶と感覚へ飛ぶため、イメージを巡らせるだけで身体内部に変化が起こってくるかのようであることだ(432頁)

 日本の舞踏が「世界のブトー」へ飛躍していくきっかけになったのは、一九八〇年、ナンシー演劇祭に出演した大野一雄によるとされている。以後、天児牛大の「山海塾」、カルロッタ池田の「アリアドーネの会」などがヨーロッパに渡って活躍を始める。麿赤兒大駱駝艦もまた遅れて、ヨーロッパに到着する。だが土方は彼らの活躍を尻目に沈黙を守っていく。彼は田中泯笠井叡と組んで、振り付けしている。それは自ら舞踏家であるより、理論を大成したいという欲望があったからだろうか。

土方は六〇年代の澁澤龍彦種村季弘のヨーロッパの異端文学を地とし、三島由紀夫の耽美的な古典主義、アルトーバタイユらのシュールリアリスティックな思考が重畳し、これらの知を支える東北生まれの肉体が母体となったと言われる。だが実際は、こうした通りのいい影響関係に収まりきらない関係の網の目が張り巡らされていることであろう。


土方巽の巨大な思考を解きほぐすことは、今後に残されたわれわれの課題でもある。


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