書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『生物と無生物のあいだ』福岡伸一(講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ

→紀伊國屋書店で購入

生命の本質を分子レベルで問う

生き物のことを考えるようになったのは、スナネズミを飼うようになってからだ。

一匹、一匹の差が際立っていて、ひとつとしておなじものはいない。

犬猫ならそれも当然と受け流せるが、

こんなに小さな生き物がそうだと、やはり愕然としてしまう。

著者は分子生物学者であり、小ささの相手がネズミどころではない。

分子のレベルに分け入って、生き物の拠って立つ所以を観察し、考察する。

すると、ふだん私たちが当たり前のように見分けている生物と無生物の

ちがいですら、簡単には分別できないのが判ってくる。

最初のところで、生物とも無生物ともつかない謎の存在として、

ウイルスが例に挙げられている。

ウイルスは自らを増やせる。だから生物を「自己複製するもの」と定義すれば、ウイルスはまぎれもなく生物である。

だが、ウイルス粒子単体を眺めると、無機的で、硬質で、幾何学的な美をもつ機械的オブジェのようであり、

生命の律動らしきものは少しも感じさせない。

果してウイルスは生物なのか、それとも無生物なのか。

長いこと論争され、いまだ決着のついていない問いについて著者は

「ウイルスは生物であるとは定義しない」と言明する。

それは自己複製システムがあるだけで生物とはみなせない、と考えるからだ。

では、生物が生物であるためには、

他にいかなる条件を付ければいいのだろうかー。

ウイルスの話題でしかと心をつかまれ、

そのままミステリーを読むように固唾を呑んでページを繰っていった。

生物学の本は読み慣れてないにもかかわらず、少しも困難はなかった。

それはひとえに著者の文章力と構成力である。

比喩が的確であり、しかも比喩に逃げることがない。

比喩はわかりやすくするが、もらすこともあるのをわきまえている。

理系ならではの慎重さと、文系も舌を巻く詩的表現が、

これほどバランスよく混じり合った本はめずらしいだろう。

だが、本書をそれにも増して魅力的にしているのは、

生命活動の本質とはなにかという問いを、

著者が切実さを持って問い掛けている点にある。

子供のときに生き物が好きで生物学に進み、

分子生物学という最先端分野で研究をしてきた。

「生命とはなにか」という設問は、いまや言い古されて、

広告のコピーのようにすら響くが、

遺伝子操作が当たり前におこなわれている現在、

この問いを避けては、生物学者としての立ち位置は明らかにならないはずだ。

そのことの切迫感と緊張感が、通奏低音ように文章の背後に流れている。

ニューヨークのロックフェラー大学とボストンのハーバード大学という、

アメリカの名門で博士研究員生活を送った体験をひもときつつ、

話が進められていく。

マンハッタン島を一周する遊覧船から見る島の情景を描写し、つぎにミッドタウンにある人目につかない小さな大学の窓から遊覧船を眺めているシーンに一転するあたりなど、見事というほかない。

ロックフェラー大学ノーベル賞受賞者を幾人も排出した重要機関だが、

著者はそこにいて輝かしい栄誉に輝いた人々ではなく、

地道に研究にいそしんだ生物学者、オズワルド・エイブリーに共感する。

彼こそがDNA=遺伝子であることに世界で最初に気付いた人であり、

それを数値で示そうとひっそりと試験管を振りつづけたのだった。

だが彼の時代にそれは果せず、結局、DNAの構造は50年代に入って、

ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという若手生物学者によって

明らかにされる。

もちろん、彼らの発見はエイブリーの研究があってのことだ。

著者はなぜこの話題に触れたのだろうか。

大きな発見の陰には必ず踏み台になった人がいる、

というような人生訓のためではない。

DNAは遺伝子であるという発想は、直感では到達しえないものだと著者は言う。

ではなにがエイブリーを導いたかというと、

「自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手応え」

だと想像し、それを「研究の質感」と呼んでいる。

「(エイブリーの確信は)最後まで実験台のそばにあった彼のリアリティーに基づくものであった」。

生物内でつねに分子や原子が置き換わり、

いっときも止まらない状態にあるのを指摘した

ルドルフ・シェーンハイマーの発見に触れるあたりから、

本書はいよいよ核心に近づいていく。

このシェーンハイマーの概念をさらに拡大するものとして、

動的平衡」という言葉を著者は導入する。

生命は分子・原子レベルで、欠落を埋めようとしたり、

バランスのいいところに落ち着こうとして動き、流れつづけている。

その見えない意志のようなものが「動的平衡」であり、

生命システムの本質なのだ。

そして最後には、自らおこなった、ある遺伝子を削除した

ノックアウト・マウスの実験結果を例に挙げて、

生命と時間の関係を説いていく。

生命がつねに流れている状態にあるというのは、

時間というファクターを無視しては生物をとらえ切れないということだ。

時間が逆戻りしないと同様、生命は起きてしまったことを、

起きなかったようにはできないし、その逆も同様なのである。

生命は一瞬前に起きたことを参照し、それとバランスをとり、

なくなったものを埋め合わせしながら、流れていく。

欠損状態を保ったり、データを初期化したりということは、

分子レベルにおいても不可能なのであり、

もしそれが出来てしまったら、生命とは呼べないのである。

「(生命は)決して逆戻りできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである」

粗製乱造される新書が目立つ中でひときわ輝く、生命の律動に満ちた仕事だ。

→紀伊國屋書店で購入