『精霊たちの家』イザベル・アジェンデ (河出書房新社)
「『運命』を口にできる体験の重み」
夏は私にとってそのためにとっておいた本を読む季節だ。中身のしっかり詰まった厚めの本をゆっくりとめくる。物語の舞台がどこか遠い国ならばなお理想的。夏休みの思い出と旅の記憶がよみがえり、東京にいるのを忘れる。
『精霊たちの家』はチリ出身の女性作家イサベル・アジェンデによるある一族の物語だ。以前に国書刊行会から出たときに買い求めたが、何かにさまたげられて中断して以来、再開の機会を狙っていた。今年3月、この作品が池澤夏樹の個人編集による世界文学全集の1冊として刊行され、この夏はこれだと思ってとっておいた。
第1章は絶世の美女ローサの話ではじまる。彼女が主人公かと思いきや、間もなく死んでしまい、その役は末の妹クラーラに引き継がれる。彼女は食卓のものを手を触れずに動かしたり、先の出来事を予知する超能力少女だが、1章で早くも重大な発言をする。神父が説教している最中に、教会中にとどろくような声でこう言うのだ。
「レスポース神父様、さきほどから地獄、地獄とおっしゃってますが、それが根も葉もない作り話だったら、ばかを見るのは私たちじゃありませんか……」
最後まで読み終えて再び1章にもどったとき、長大な物語を貫く一本の糸がここに隠されているのを感じた。
クラーラは美貌の姉の亡きあと、姉の許婚者と結婚。相手はエステーバン・トゥルエバという意志強固で肉体堅牢なマッチョで、忘れ去られた田舎の農場再建に尽力する。クラーラは三人の子供の母になり、やがてその娘に子供が生まれで祖母になる。三代にわたる母系の物語に流れるのは、10歳のクラーラが予言したように、宗教的価値観が崩壊し、イデオロギーの時代に転換していく歴史の趨勢なのだ。
「9.11」というと私たちはアメリカの同時多発テロを思い浮かべるが、ラテンアメリカではずっと以前から「9.11」 は特別な日だった。1970年、チリで世界初の選挙による社会主義政権が樹立するが、3年後に軍事クーデターで覆される。それが9月11日だったのだ。著者は短期間政権をとったアジェンデ大統領の姪に当たり、この歴史的事件にむかって一族の物語をじっくりと書きおこしていく。
物語の中盤までは、大農場主の暮らし、運命を変えられない下層の小作人の生活、運命の過酷さ、自然の強烈さなどが、現実と超現実を行き来する淡々とした描写で浮き彫りにされるが、私にはどこか「遠い世界の出来事」のような印象があった。
ところが孫がピッピー世代に突入するあたりから、それが変わる。私自身と地続きの出来事になり、切迫感が出てくる。それ以前の部分をエキゾチックに感じるのは、ひとえに私がラテンアメリカの歴史にうといからで、「9.11」の意味も知らないのだから、フジヤマとゲイシャが日本文化だと思う欧米人と大差がない。
そうしたこちら側の無理解が原因のファンタジー感覚は、1960 年代に突入するやいなや消えてしまう。本書がもたらした最大の驚きはそれだった。
編者の池澤夏樹が月報の中で指摘しているように、前半部はガルシア・マルケスの『百年の孤独』を彷彿させる。現実と非現実が違和感なく交錯するマジックリアリズムの文体が過去の出来事を神話的に語る。ところが、後半では物語ぜんたいがその枠を破って現実世界に踊り出てくるのだ。自分がいまを生きるのに必要なことを書かなければならない、という著者の声がそこに読み取れる。
エステーバン・トゥルエバはやり手の勢力家で、農場を成功させて地位を築き国会議員になるが、娘のブランカは小作人の男に恋し、その子供まで産む。アルバという名のその娘は成長して社会主義活動家と恋仲になり、そのことが原因で軍事政権下で激しい拷問を受けるのだ。
その拷問を指揮したガルシア大佐は、アルバの祖父であるところのエステバーンが手込めにした小作人の女の孫で、祖父の血をわずかに引いたアルバの血縁である。憎しみがイデオロギーに裏打ちされたときに人が示す残虐さは底なしだ。息もつけないような残酷な出来事が記述される。
エピローグが素晴らしい。本書の構造が一気に解ける。1章の最初に、クラーラが少女時代からつけてきたノートが家にあり、「私はそのノートのおかげで過去のできごとを知り、突然襲ってきた不幸な時代を生き延びることができた」という1行があるが、この「私」とはアルバなのだ。彼女は拷問を生き延びて実家にもどったとき、祖母のノートを手がかりに一族の過去を語るのである。
随所に祖父エステーバンの回想が挟まれ、彼だけが「私」を自称して過去を語ることに最初は少し面食らったが、この構造もエピローグを読んで明らかになった。アルバは祖父のすすめでこの物語を書き、祖父自身も自らも筆をとって記憶を書き残した。つまりこの物語には祖父と孫娘の共同作業という意味が込められている。
驚愕させられた一文がエピローグの中にあった。自分を拷問したガルシア大佐にどう復讐しようかと筋書きをあれこれ頭に描いていたが、しだいに「生まれる前から定められていた運命の図式」だと思うようになったとアルバは語り、こうつづける。
「すべての線はなんらかの意味を備えている。随行されるべき一連の行為はすでに定められていた。そして、祖父が川岸の茂みで彼の祖母パンチャ・ガルシアを押し倒した時、その一連の行為にひとつまた新しい結び目が付け加えられたのだ。その後、強姦された女の孫が強姦した男の孫娘に対して同じことをし、おそらく四十年後には私の孫が彼の孫娘を川岸の茂みで押し倒すことになるだろう」
とくにぎょっとしたのは「おそらく四十年後には……」ではじまる最後の部分である。「運命」という言葉はいまの私たちには遠い。とくにアメリカ的価値観がゆきわたった社会関係のなかで「運命」を公言するのは勇気がいる。それは何かを放棄し、あきらめることを意味するからだ。現実社会では「運命」は死語化し、「物語」のエンディングのためにとってある言葉のように思える。
先の引用文の後につづく「苦痛と血と愛の果てしない歴史の中で、これから何世紀にもわたってそういうことが繰り返されるのだ」という言葉は、この1行だけを取り出せばゲームさながらの世界系小説の安せりふのように聞こえてしまう。だが、「自分の孫が四十年後に彼の孫娘を押し倒すであろう」という言葉がその前にあるために重みが加わっている。「物語」の内部にとどまらない作者の意志に粛然とするのだ。こういうセリフは私にはとても言えない。口にできるほどの運命を体験したことがないのだ。