書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『名残りの東京』片岡義男(東京キララ社)

名残りの東京

→紀伊國屋書店で購入

「写真機がもたらす孤独、それが物語る「東京」」

街を歩くのが何よりも好きな私は、天気のよい夕方など、いまこのときに輝いている何かがどこかで待っているような気がしてそわそわする。風景は光や湿度や風の具合によって佇まいを変える。その変化の瞬間には風景と自分とのあいだに夾雑物がなくなり、一対一でむきあっているような、この世にあらざる場面に遭遇したような独特の気分になる。とくに曇り空が切れてそこから西日が差してくるときなどはそうで、そういう状況下でデスクにむかっていると、原稿なんか書いている場合かという気分に攻め立てられるのである。

文章を書くにも心身のコンディションが関係するが、写真はそれ以上にかかわりが深く、撮る意欲がわきおこるためには内的必然と外的必然が合致しなければならない。そのチューニングが良好だと「うまく歩ける」状態がやってきて、シャッターを押す指にはずみがつく。逆にシャッターを押すことがそれを促進することもあって、写真と歩行のあいだには不可思議な関係が存在するのである。

文章を書きながら同時に写真も撮っている作家は多くないが、そのひとりに片岡義男がいる。彼には東京を歩くことから生れた何冊もの写真集がある。ある雑誌で彼と対談したとき、どのように撮っているかと尋ねたら、外出のついでに撮るというのではなく、写真を撮るためにカメラだけを持って出かけ、くたびれるまで撮り歩くのだと答えた。とくに「晴天の日だともったいない気がして、写真機をもって歩いていたほうがいいな、あそこでシャッターを押してみたいなと思う」という発言には、同士を得たような気がして心のなかで喝采を送ったのだった

『名残りの東京』は著者自装の美しい写真集で、東京の写真を収めた6冊目にあたる。東京だけを歩きまわってこんなにもたくさんの写真を撮っているのに驚く。たぶんここに収まっている量の何十倍もシャッターを切っているだろう。撮影のスタンスは一定しており、撮りたい対象を中心に据えて近距離でスナップする。車窓から撮ったり、高い場所に上がってとらえることはしない。路面に足をつけて歩行するその位置と速度から見えてくるもののみが対象で、路上の視野が徹底されている。

1ページずつ繰っていくと、私も撮るであろうものが次々と登場して興奮を覚える。いや、自分も撮る、と思うのは錯覚で、見るうちに彼の視線に同化して意識化されると言うほうが正しい。たとえば最初のぺージに登場するのは、細かな砂を吹きつけたコンクリートの門柱と、そこに貼り付けられたほうろう引きの番地表示だ。たしかにこういうものを見たとき、心がピクッと反応する。だが、撮ったことはないのだ。くるくる回転する床屋のポール、錆びついたシャッター、穴のあいた商店の幌、プラスチックの波板、板塀、店頭の手書きの値札、ショーウィンドーの食べ物のサンプル、路面に描かれた「止まれ」の文字、モルタル壁、マンホールだらけの商店街の路地、雨どい、破れた窓、錯綜する電線……。無意識のはじっこにひっかかっていたものが、つぎつぎと写真になって現われ、ああ、そうだ、たしかにこういうものを何度も見た、と思い至るのである。

これらの被写体は彼に選ばれ撮られたわけだが、本を編むときにはそれをさらに絞りこむ作業がある。繰り返し撮られたものが、写真集を編むときにもう一度選ばれて、「繰り返しの駄目押し」がなされている例が、いくつも見られた。雑貨屋の店先に下がった手ぼうきやタワシ、ショーウィンドーにある作り物のオムライス、にぎり寿司のサンプル、八百屋の店先の大根、コンクリートの階段などである。

先の雑誌の対談で繰り返し撮ってしまうものが話題になったとき彼は、「また撮ったな」と思ってこんどは意志を強くして、「いままでなら撮ったけど、今日は撮らないぞ」などと思いながら撮るのだと語っている。路上スナップを経験している人ならかならずやこのセリフに共感するだろう。どういうわけか、出会うとかならずカメラを向けてしまうものがあるのだ。犬がオシッコをかけるように、見ればシャッターを押さずにいられない。押しながら自分で笑ってしまう。写真を介して自分自身を前後左右に動かしているような具合で、街のスナップがやめられないのも、それがおもしろいからではないか私が問うと、彼は身を乗り出すようにして、「まさにそれが面白い。いちばん面白いですよ」と答えたのだった。

撮るときは無意識でも、セレクトは意識的だし、しかも写真集はページ展開によって流れが決まるから、「オムライス」をどこの順番に入れるかには意図が込められている。自分を前後左右に動かす手つきがそこに出るのだ。この写真集には、それまでのもの以上に、片岡義男の「意識」が描き出す「東京地図」が表出しているように思う。言葉を使った小説の創作とおなじことを写真で試みるように、彼はここで東京を物語っている。それは語り手のなかにだけにある幻の「東京」であり、私たちは写真という入口からそこへ入っていくのである。

ふと彼が『ホームタウン東京』(2003年)のなかで書いていることを思い出した。「ただひとり東京と向き合う」という短文で、こう述べているのだ。

「こんなにありふれた、どこと言わずそこらじゅういたるところにある平凡きわまりない光景を、なぜわざわざ写真に撮るのかという問題は、写真機から発生する。写真機のなかでそれは生れ、僕へと伝わり、その僕はこんな光景を写真に撮る。そのときほどに僕がひとりきりになる瞬間は、いろいろ考えてもほかにない。そしてそのひとりきりの瞬間は、僕にとっては大事なものだ」

小説を書くときもひとりきりを実感するだろう。だがそのとき彼がさまよっているのは脳内の世界だし、もしかしたらそこには登場人物が多数蠢いていて、意外にもひとりきりの実感はないのかもしれない。写真には現実の街を歩いて実体あるものに接しつつ孤独を味わえるという不思議さがある。その甘美さに魅せられてしまうと街のスナップはやめられない。しかも東京の現実は刻一刻と変化し、たえず未知なる孤独を運んでくるのである。


→紀伊國屋書店で購入