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『きことわ』朝吹真理子(新潮社)

きことわ

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「緻密な思考と言葉への信頼の高さが圧倒する」

『きことわ』というタイトルがまず気になった。音の響きにもひらがなの文字にも、こちらの心をかすかに揺らすものがある。聞こえているようで聞こえない声、見えるようで見えない影、気配だけがたしかなような状態。太古のことばのようにも感じる。いったい「きことは」とはなんだろうと思いつつページを開き、最初の2行でその答えがわかった。貴子(きこ)と永遠子(とわこ)というふたりの女性の名前がひとつになって「きことわ」なのだった。

物語の主人公は貴子と永遠子である。それはまちがいないのだが、読みすすむにつれて本当の主人公は別にいると主張したい気になった。彼女らはその主人公の姿を顕現させるために身を貸しているという思うがひたひたと押し寄せてきたのだった。

物語の設定はとてもシンプルである。貴子は葉山に別荘をもつ家の娘で、永遠子はそこの管理人の娘。7歳の年齢差にもかかわらずとても気が合っていたが、ある年を境に貴子の家族が来なくなって会わなくなり、25年がすぎて別荘が人手に渡ることになって所持品の整理のためにふたりはその家で再会する。15歳だった永遠子は40代、8歳だった貴子は30を過ぎている。

こう解説すると、過去の記憶をたぐりよせながら、会わなかったあいだのそれぞれの人生を語り合うというような内容が思い浮かぶかもしれない。丘の上の古い別荘、再会する幼なじみのふたり、とくればそんな想像を生んでもふしぎはないし、最近、こういうシチュエーションの映画が少なくないのもたしかである。だが、作品のもっているニュアンスはそれとはまったく異なる。本当の主人公はだれかということもそこに関わっている。

「午睡からめざめると草木を透かして永遠子の髪と畳みに流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚けるようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍の重さ。そのときどきの季節の推移にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。おなじように思い起こすことはできなかった。いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。かたちがうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。もはやそれが伝聞であるのか、自分の目の記憶なのか、判別できない」

25年ぶりに別荘に足を踏み入れた貴子の目に映った庭の眺めと、彼女のなかに湧きおこる思いを描写した部分である。幼いときに見ていた庭を前にして記憶が目覚め、深い感慨をもたらすというのはだれにもあるだろう。だが、ここで心に留めておきたいのは、それを感じている心がいっときもとまらずに動いていることをも、彼女が感じとっている点である。「ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた」という言葉がそれを示している。

「過去」が「いま」という時点に呼び出されたとき、その過去は概して固定的なものとしてとらえられ、それすらもが動いているという指摘はあまりなされない。とくに物語のなかで呼び出された過去は筆者の目的のために使役されることが多い。「いま」に流れこんできた「過去」がいまと同様に流れているということ、しかもその「過去」が体験だけでなく、伝聞によっても培養されるという認識に、著者の感覚する力のたしかさ、書くことの誠実さ感じた。

また人の意識には過去をよみがえらせるだけではなく、未来を先取りする力もある。永遠子の背丈は15歳のときと変わってないが、食器棚の整理をしながら、ガラスに映った自分の姿を見て「このひとをむかしもたしかにみた」と彼女は思う。「ちいさいころ、この食器棚の前を通ると、いまみている自分のすがたとおなじような、年をとった大人のすがたが映りこんでいるように思えた」ことが思い出されたのだった。40歳の姿は過去の自分にすでに見られていたのである。

こうした緻密な思考の軌跡をたどっていくうちに、主人公は永遠子でも貴子でもない、時間そのものがこの物語の主なのだ、と言ってみたくなったのだ。三浦海岸の地層の話や、永遠子の好きな化石や海洋生物のことなど、人間が誕生する以前の時間も巧みに挿入しながら、いっときも留まらずに流れつづけてきた時間が強調される。その時間は不可逆的なものであり人の身体を老いさせたり、生を終えさせたりする。

と同時に人の内部にはいっときも止らずに流れている別の時間があるのだ。これは物理的な時間とはちがって、前にすすんだり、逆行したりと自由に移ろうことができる。夢とはその時間が映像をともなって脳裏に現われたときのかたちなのだ。

冒頭に「永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない」という言葉がある。貴子は幼くして母を亡くしており、その母とおなじ年齢になったいま彼女は思う。母親に会えないのは、自分が母親にみられている夢の人だからではないかと。母親が起きているあいだ貴子は眠り、貴子が起きているあいだは母親が夢をみている。「自分は夢にみられた人なのだから、夢をいつまでも見ないのではないか」と考えるのだ。死者となった母の時間のなかにいる自分、そこで母に見られているゆえに夢をみない自分。物理的時間や生きている人の内部を流れる時間とは別の次元の死者の時間がここで語られている。死者の時間と生者の時間とはすれちがい、交わることがない。

豊穰なイメージをたくみに重ねあわせているだけのようでいて、そうではない。その裏に論理的な思考と認識力と現実を把握するたしかな力がひそんでおり、むずかしい言葉をひとつも使わず、わかりやすいやわらかな言葉でそれを刻んでいく。なににも仮託せずに言葉だけで立っている潔さ、五感の伝えるものに等しく発言の機会を与える公正さがとてもすがすがしい。映像的な想像を刺激するエピソードや小道具がたくさん出てくるので一見映画化しやすそうだが、安易な映像化を退ける矜持がみなぎっている。言葉の力を心から信じている人の文章なのである。


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