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『ぼくはお金を使わずに生きることにした』マーク・ボイル著/吉田奈緒子訳(紀伊國屋書店)

ぼくはお金を使わずに生きることにした

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オルタナティブな未来のために」

                 毛利嘉孝東京藝術大学准教授)


 最近になって、東京を離れ地方に住む人がまわりに増えている。もちろん決定的な契機になったのは、今年三月の東日本大震災とそれに続く福島原発事故だが、それだけではない。むしろこれまで日本の社会を支えてきた市場経済原理に対して疑いを持ち始めた人が、じわじわとだが、増えてきているように感じられる。

 彼らの背景はさまざまである。就職活動をしていて企業社会に疑問を抱き始めた学生もいるし、これまでデザインや音楽、アートの仕事に従事してきて都会の生活に疑問を持ち、地方で余裕を持って暮らしたいと移住した人もいる。地域興しや町興し、さらには政治に関わりたいという人もいる。もちろん、原発事故後の放射能汚染に対する不安がそれを後押ししている。

 彼らの共通の関心は、農業や漁業など一次産業であり、DIY(Do It Yourself)の自給自足的な経済である。けれども、このことは昔の生活のあり方に戻ることを意味しているわけではない。「半農半X」という言葉があるが、生計については農業以外のところである程度確保しつつ、生活の一部として食の生産に携わりたいというのが現実的な選択のようだ。実際、ネットさえあれば支障のない仕事も増えてきている。

 とはいえ、その道は決して平坦ではない。農業をめぐる状況は厳しい。仕事も過酷である。さらに「半X」を支える日本経済の雲行きも怪しい。何よりも問題なのは、日本ではまだこうした新しいライフスタイルの成功例がほとんどないことだ。

 マーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、このような新しいライフスタイルを模索している人たちのための絶好の手引きになるだろう。本書は、イギリスの郊外都市ブリストルの近郊で、一年間全くお金を使わずに生活した二九歳の若者マークの体験記である。

 「お金を使わずに生きる」というと、一切社会と関係を断ち、自然の中で自給自足の生活をしている人を思い浮かべるかもしれない。

 確かに、トレーラーハウスで電気や水道などの生活インフラを使わずに暮らすマークの生活にもそういう側面はある。冬のイングランドの厳寒の生活は過酷だ。また、このプロジェクトのために恋人と別れてしまうくだりなどは、ほろ苦い。

 けれども、この本の中で「お金を使わずに生活する」ことによる「惨めさ」はほとんど感じられない。むしろ不思議な?豊かさ?さえ感じさせる。生活のためのサバイバルの知恵を身につけて行く様子は読んでいて楽しい。中でも最高に楽しいのは、「お金を使わずに生きる」生活の最初と最後に盛大に行われるフリーパーティの様子である。マークがこの生活で得たノウハウと人脈をすべて動員して、約千人もの人に無料で食事を振る舞う大パーティを開催するのだ。

 この本の面白いのは、何よりもこうした生活が社会的なネットワーク、とりわけインターネットと都市のネットワークそしてそこで生まれた知識によって可能になっているということである。

 住むためのトレーラーハウスは、無料で物品を交換する「フリーサイクル」のサイトへの投稿を通じて入手する。唯一の移動交通手段である自転車のタイヤのパンクに悩まされると、パンクをしないタイヤの提供者に出会う。

 食料の確保としては、自家栽培や、キノコなどの野外に自生する食料の採取が一般的だが、それ以外にも都市と関係を保っているがために可能な入手手段がある。それは著者が市街地採集(アーバン・フォレジング)と呼ぶもので、要は、他の人が賞味期限切れなどの理由で捨ててしまったものを利用することだ。

 「捨てられたもの」というと印象が悪いが、まだ食べられるにもかかわらず、店の方針等によってゴミとして捨てられてしまう膨大な食品が都市には存在する。欧米ではこうしたムダになるかもしれない食料を再利用すること自体が新しい食の流通をつくる生活の実践として、エコロジー運動やDIY文化の中で浸透しつつあるのだ。

 マークは、ストーブから食料の調達まで、フリーエコノミーを提唱する地域グループやインターネットからさまざまな情報を得る。そして、こうしたノウハウや知識、情報を最大限活用して、生活を変えて行く。それは、単に「お金を使わない」というだけではなく、広い意味での思想の実践であり新しい経済の試みなのである。

 さて、こうした思想と生活の実践は日本にも定着するだろうか。もちろん歴史も環境も違うのですべてを真似するわけにはいかないけれども、この危機的な状況の中で確実に重要な選択肢の中に入ってきているように感じられる。オルタナティブな生活と未来のために、ぜひ多くの人に読まれて欲しい。

          *「scripta」第22号(2012年1月)より転載

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