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『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』宮澤淳一(みすず書房)

マクルーハンの光景 メディア論がみえる

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これでもう一度、一からのマクルーハン

息せき切ったダミ声の大阪弁で、政財界への講演が一回で何百万という噂もあった時局コメンテータ竹村健一氏の名も姿も知らない学生たちの前で、マクルーハンのことを喋るのも妙なものだ。マクルーハンは、竹村氏のアンテナがピリピリ敏感だった絶頂期、その『マクルーハンの世界-現代文明の本質とその未来像』(講談社、1967)で一挙に有名になり、同じ年の「美術手帖」12月号「マクルーハン理論と現代芸術」特集で、大学闘争がいよいよ爆発寸前という時代の、学とアートとがごっちゃになる創造的混沌の季節の代表的ヒーローとなった。1960年代末にかけての世上あげての「クレイジー・ホット・サマー」の何でもミックス、何でもありの、日本と世界の知的状況の中で、マクルーハン・カルトとも「マクルーハン詣で」とも称されたメディア論の元祖を位置付けるチャートの巧さに、宮澤淳一『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』の魅力はまずある。

1980年代にはすっかり沈静化していたマクルーハン・ブームの中、マクルーハン没の翌1981年、象徴的にも「たった一人の、マクルーハン追悼」(「早稲田文学」通巻60号)を書いた日向あき子の名など、懐かしいとしか言いようがない。ぼくにとって美術評論家 日向あき子といえば、美術誌「みづゑ」誌上でポップ・マニエリスム」論を展開した天才として記憶されているからだ。恥ずかしいことだが、日向女史が2003年には既に他界されていたことを、宮澤氏に教えられて初めて知った。

個人的には、ジョン・レノン、「サウンドスケープ」のマリー・シェーファー、ハプニングアートのジョン・ケージバックミンスター・フラー、そしてとりわけ1960年代的な前衛集団「フルクサス」のアーティストたちとナム・ジュン・パイクといった芸術家集団へのマクルーハンの影響を次々概観する第3講が、発見といまさらながらの驚きに満ちた収穫である。『グレン・グールド論』吉田秀和賞を受賞した著者のこと、当然グレン・グールドマクルーハンの交流もきっちり描いてくれる。

妙な縁で、マクルーハンの死後出版、ご子息のエリックとの共著の形で『メディアの法則』の監訳・解説を引き受けた際、メディア論プロパーの世界がこの一種禅坊主じみた宗祖の扱いに手を焼いたまま忘れたがっている風情に、改めて時の流れを感じると同時に少しびっくりした。マクルーハン・メディア論にろくな展開がなく、マクルーハンが自身をポーやジョイスに入れ込む「英文学者」と見てもらいたがっていたことを考え直す余裕も見当たらない。

確かに、マクルーハンは難解だ。いわゆるアフォリズムマクルーハン流に言う「プローブ(Probe)」だから、前後の文章が、考えないと巧くつながらない。引用モザイクというスタイルも厄介だ。えらそうに論を展開する前に、まずこのスタイル、この英語が問題だ、と言いたげに宮澤氏が持ち出してくるのが、1964年、『メディア論』で世界的にブレークする直前、ある雑誌に載った「外心の呵責」というマクルーハンの記事である。これを英米の大学でやるパラグラフ・リーディングの方法で逐条的に解読してみせる。未来のマクルーハン理論の全体が早くもコアとして出揃っていることが次々わかっていくスリリングな第1講である。

有名な「理想の教室」シリーズ中の一冊。双書の約束事として、有名な一文を冒頭に訳載し、それへのコメントという形で本論が進むのだが、宮澤本はそのために精読するテキストの選択で既に意表を突き、成功した。難解なテキストがゆっくりと読みほどかれていくのに付き合う作業は、マクルーハン理論の何かを知るというよりはテキスト講読の手だれの講義を聴いている感じで、快感だ。

第2講「メッセージとメディア」は、マクルーハン・メディア論といえばこれという、たとえば「ホットなメディア/クールなメディア」論や「メディアはメッセージである」という警句の正確な意味を考える、メディア論としては骨子の部分だ。「メディアはメッセージである」。英語の読めるマクルーハン読者ならたぶん意味を取り違えることはないだろうが、現実には中途半端な理解しかされていない。「マクルーハンを中心に扱った本邦初の博士論文」の公開審査の席で、審査官の一人、佐藤良明氏が発した「メディアこそがメッセージである」と訳すべきではないか、という質問をきっかけに、いかにもという「正解」に至る。“a”と“the”の違いだったのだ。“「メディアはメッセージ」解決!”とオビに謳うのもムベなるかな。この一点からマクルーハニズムという巨大なコリが一挙にほぐれていく。そう、「メディアはマッサージ」でもあった!

一番肝心なところが曖昧なまま、もごもごごそごそと積み重なってきた世界が、肝心なところがクリアーになって、あとは次々展開し、近時稀な爽快感を味わった。と同時に、“a”と“the”の違いなど屁とも思わぬ「紹介」や「翻訳」の怖さを改めて痛感させられた。佐藤良明はやっぱり凄いな。宮澤淳一も凄いな。巨大な世界を丸ごとひとつ救い出したのだから。

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