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『ガラスの宮殿』アミタヴ・ゴーシュ著、小沢自然・小野正嗣訳(新潮社)

ガラスの宮殿

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モノクロからカラーへ

 すばらしい。600ページを超える大著の最後の最後に、こんな感動的なラストシーンが待っているとは。映画『ニューシネマ・パラダイス』のそれにも似た見事な幕切れで、不覚ながら涙を禁じえなかった。


 アミタヴ・ゴーシュはインド系英語作家。この小説も、ビルマ、インド、そしてマライ(マレー半島)といった土地を舞台にしている。地理的にいってもスケールの大きい作品であるが、時間的にもこの小説が扱うのは19世紀末から20世紀末までのほぼ一世紀にわたる。

 小説はこんな何気ない書き出しで始まる。

イラワジ川の銀色のカーブ沿いに平原を転がり抜け、マンダレーの砦の西壁にまで轟いてくる音。その正体を知っているのは、屋台にはたったひとりしなかった。とはいっても、ラージマクールという名のその少年はインド人で、まだ十一歳だったから、どこまで信じていいのかはわからなかった。

 これが1885年のこと。年号まで特定できるのはこの小説が史実を背景にした小説だからだ。この年、ビルマ最後の王ティーボーが、イギリス軍によってマンダレーの王宮から追放され、王族や侍女たちはインドのボンベイの南に位置するラナトギリに追放される。「西壁にまで轟いてくる音」とは、イギリス軍の大砲の音にほかならない。インドに続いて隣国のビルマもイギリスに植民地化されたのである。混乱する王宮のなかで、インド出身の孤児ラージマクールと、侍女のひとりのドリーとが運命的に出会う。ここから、長い長い物語(サーガ)は紡ぎ出され始める。時を経て結婚するふたりと、彼らの子どもたち、そして孫たちの物語を中心に、彼らの友人たち(とその一族)との人間模様、恋愛模様が語られる。映画的とも言えるようなゴーシュのストーリーテリングが魅力的だ。とにかく抜群にうまい。ページが減っていくのが惜しくなる、というのは凡庸なほめ言葉かもしれないが、この小説にこそこの表現がふさわしい。

 エピソードの使い方も上手だ。たとえば、題名になっている「ガラスの宮殿」(glassとはガラスでありグラスである)。マンダレーにあったビルマの王宮には天井の鏡張りの大広間があったことから、この名前があるのだが、一度導入されたガラスの光り輝くイメージは、この小説のなかで、さらに二度くり返される。

  一度目は、さきに名前を上げたビルマ王宮の侍女であったドリーの息子が、第二次大戦後、ビルマのラングーンの町に作った写真館の名前として。写真の額にも陳列台にも、カメラのレンズにもガラスがあったから、そして母親がいつも口にしていた言葉だったから、彼は自分の写真館にグラス・パレスの名前をつけるのだが、独立を獲得しつつも軍事政権がビルマを支配する状況にあって、ここは反体制的な心情を持つ若者たちの集まる場所となっていく。「グラス・パレス」の名前は7部構成の最終部の題名になっているからこれはわかりやすい。

 しかし、もう一つのほうはもっと微妙だ。それは、ラナトギリに追放されたビルマ国王が、幽閉先の、海を見下ろす家のバルコニーから、毎日、金縁の双眼鏡で何時間も海を眺めていたというモチーフとして、である。言うまでもなく双眼鏡はglassesである。漁師たちは夕方に湾に戻ってくると、安らぎを求めるように、丘の上のバルコニーのほうを見上げると、そこに王の双眼鏡が光にあたって輝いているのが見えるのだ。いまは権力を失った王は、双眼鏡で海を眺めることを王として残っている最後の義務としている。だから、「女たちが屋根に上がり、彼のまなざしにあるとされた祝福を受けようと、生まれたばかりの赤ん坊を高くかざ」すと、国王は「迷信深い母親たちに双眼鏡を数分間当てたままにしておくのだった」。国王のささやかな矜持と孤独を象徴するようなエピソードであるが、ガラス(グラス)とは、この作品では、守るべき誇りの象徴としてあるように思われる。

 1885年から20世紀末までのインド、ビルマ、マライといえば、当然、話は大英帝国植民地主義の問題に関わってくる。その意味で、ラージマクールとドリーという二人の主要人物以上に、重要な役割を担っている人物はウマという女性だ。彼女の夫はエリート官僚。インド人でありながら帝国に仕える人生を歩み、ラナトギリに幽閉されている王族たちを監視する立場にある。そういう出会いでありながらも、ウマはドリーの生涯の親友となっていくのだが、それと並行するように、やがて彼女は夫のもとを離れ、アメリカへと渡り、インド独立運動の闘士となっていく。ウマは、インド人として生まれながらインドの安い労働力を使ってビルマにおいて富を得ている年来の友人であるラージマクールとも疎遠になっていく。

 インドと宗主国イギリスのあいだで苦しむ人物はほかにもいる。ウマの甥である。彼はイギリス軍に入って士官にまで出世するエリートであるが、インドの独立運動が次第にさかんになるにつれ、自分は「自分のための闘いといえるものを闘っているのか」と悩み始める。インドやビルマの独立という歴史的経緯をすでに知っている私たちは、植民者側にたっていたはずのウマがインド独立闘争へとめざめていく経過を「政治的に正しい」とし、この甥の煮え切らない態度をいかにも間違っているように見るかもしれない。植民地の下での幸福などニセモノにすぎぬ、と見るかもしれない。しかし、人生の最期までこの問いに苦しめられることになる青年の姿は、先の見えない「将来」を前に、いま、ここにおいて生きるほかない人間の哀しみのほうをこそ読者に伝えるだろう。

 ビルマとインドと大英帝国。いくらゴーシュがストーリーテラーといっても、多くの日本人読者にはまだ遠い話と感じられるであろうか。たしかに、ビルマの最後の王が追放されるのは19世紀末、いわばモノクロの映像で語られているような気がするかもしれない。しかし、太平洋戦争が始まる頃から画面には次第に色がつき始めるように思える。マンダレーの宮殿の遠くで響いていた轟音もいきなり爆撃音や銃の音となって読者の耳を打つ。ラングーンの町を空襲するのは日本軍だ。マレー半島で戦線を拡大していく日本とイギリス軍との衝突。『ガラスの宮殿』の登場人物たちの何人かは、ビルママレー半島で、日本軍のせいで亡くなるのである。

 この小説の最後には、ビルマ民主化を願う著者の思いの発露だろうか、アウンサンスーチーの「信じられないぐらい美しい」姿も描きこまれている。冒頭に名前を出した『ニューシネマ・パラダイス』が最初モノクロで、ある時を境にしてカラーになる映画だったように、ここに来て、この小説は、一挙にカラーになるのだ。

 この大著のなかで、人々はもがき、苦しみ、夢を見、恋し、生きた。いずれも激しい生であったが、本を読み終えてしまえば、彼らの生は歴史の彼方へ煙のごとく消えていくかのようだ。人間の心理を掘り下げたり、植民地主義の問題を鋭く問い直すよりも、時間と歴史の流れのなかに人間を包み込んでいくのがゴーシュの作風である。その点で、ゴーシュの作品は、抒情的とも、「優しい」想像力の生み出した小説とも言われるのだろうが、完璧に織り上げられたこの小説を読む者は、現実のインドやビルママレー半島の歴史と現実の姿へと思いを馳せることにもなるはずだ。じじつ、この本を読みながら、ぼくは、ビルマがイギリスの植民地となってから、アウンサンスーチーが幽閉されている現在に至るまでの歴史をもっと知りたいと思って、関連書籍をあれこれ読み始めた。小説の功徳というものだろう。

 Glassのイメージが三度くり返されるのと同様に、『ニューシネマ・パラダイス』をここでもう一回引き合いに出せば、この映画が映画そのものの力を教えてくる作品であったように、『ガラスの宮殿』は小説の力を教えてくれる小説である。ビルマのこともインドのことも遠い話だと思うような人をも動かす力があるのだ。じつは、この書評の冒頭で、『ニューシネマ・パラダイス』の名前を出したときから、ぼくはそのことを書いてこの書評を終えようと思っていたのである。

 新潮クレスト・ブックス屈指の名作と言っていい。表紙の絵も好きだ。


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