『北沢恒彦とは何者だったか?』編集グループSURE・編
「知を求めて生き書いた男の生涯」
ある人物について「何者だったか?」と問いかけるとき、世間にその人のステレオタイプなイメージが流布している場合が多い。たとえば、ヒットラーとは何者だったのか?というように。元があるからそれを覆す意味がある。だが、『北沢恒彦とは何者だったか?』と問いかけられて、彼のイメージを描ける人は少ないだろう。一見、返す言葉のないような不思議なタイトルに思えるが、読み終えたとき、本書にはこのタイトルしかありえないと感じた。人はだれしも「何者か?」という問いを残してこの世を去る。無名であっても有名であっても、そうなのではないか。
北沢恒彦を知るさまざまな人々のインタビューで構成されている。彼の詳しい履歴は巻末についているし、インタビュアーの解説も載っているので、はじめにそれを読めばどんな人物かはわかるが、いまはそれを紹介せずに頭から読んでいくことにしよう。
第一章「結婚するまで」に最初に登場するのは恒彦の伯母・米田幸子である。彼女はいきなりこんなセリフを吐く。
「そやけど、ほんまのこと言うていいのかな。さしさわらへんかな」
答えるのに躊躇するような複雑な事情があるらしいことが、京都弁のリアリティーによって鋭く迫ってくる、緊張する一瞬である。恒彦は非婚の男女のあいだに生まれ、養父のもとで育った、いわゆる「もらい子」だった。
「非婚の男女」と書いたが、昭和初期の時代を思えば、相当にラディカルな関係だったと言えよう。恒彦の実父・吉岡恒は二十三歳の学生のとき、やがて恒彦を生むことになる女性と知りあい、恋に落ちる。女性は下宿先の奥さんで三十九歳の未亡人。亡夫とのあいだに四人の子供がいたが、彼女は四人を家に置いたまま恒と出奔、逃げた先で生活し、男の子がふたり生まれた。そのひとりが恒彦だった。ところが、恒の実家はふたりの関係を認めず、子供を引き離してそれぞれ別の家に里子にだした。恒彦のもらわれ先は京都で米屋を営む子供のいない夫婦で、後にそこの戸籍に入れられた。
伯母の話からこうした事情が明らかになるが、高校時代の友人・秋野亥左牟からは、高校のときに共産党の反戦運動に熱中し、火炎瓶を投げて逮捕され、三ヶ月ちかく投獄されていたことが語られる。戦後まだまもない一九五二年のことで、早くも高校でこういう行動をとる子供がいたのに驚く。ちなみに秋野亥左牟はインドの絵画で知られる日本画家の秋野不矩の長男で、逮捕のときに不矩が動じなかったというくだりには、この画家の凄みが出ていて、なるほどと思った。
二十代の恒彦について語るのはフランス語の恩師・阿部哲三である。阿部との対話は本書でもっとも衝撃的な箇所だろう。彼ははじめ自分の経歴や、ポール・ヴァレリーの箴言などを京都弁でおっとりと語っているが、途中で思いを決めたようにインタビュアーにむかってこう質問するのだ。
「阿部 話は変わりますけどね、御尊父は、どういう亡くなり方をしましたか?
―自殺です。首をつって。
阿部 首をつった。それはなにか具体的な動機というものが、彼にはあったんですか?
―たとえば、借金で苦しんだとかいうような意味では、ないと思います。」
亡くなったのを知ったのはずっと後だったが、まわりに事情を聞けないような雰囲気があり、自分で命を絶たれたのではないかと想像していたと阿部はつづけ、それを受けてインタビュアーは、恒彦が養父の世話をしながら実家で暮らしていたこと、体調不良で食欲が減退し検査の数値にはでなかったものの、本人はガンを疑っていたこと、家を出て勝手に暮らしていた時期が長く、いまさら妻の元にもどれないと感じていたことなどを説明する。
阿部の「御尊父」という言葉から、もうひとつ重要な事実がここで明らかになる。北沢恒彦はインタビュアーである黒川創の実父なのだ。父親が自死したあと、作家である息子が父を知る人々に話しを聞き、彼の生涯と生き方についてまとめる、本書の性格を一言で言い表すとそうなる。著名人でもない限り、読者の興味を引くものにはなりにくいから、作家が自分の親についてこのような聞書き集を著わすことはまれである。だが本書は、世間的に知られたとは言えない人物を扱っているにもかかわらず、ぐいぐいと引き込んでいく。
恒彦の人生が起伏に富んでいることもあるが、それ以上にインタビュアーの力と構成力が大きい。肉親をひとりの人間として突き放すその距離感が徹底しており、家族の出す自費出版本のたぐいや、著名人の書く肉親の回想録などとは一線を画した普遍性を守っている。読者は引き出された言葉をそれぞれの方法で編みながら「北沢恒彦」の人間像を作り上げていく。そのための資料を提供しているという編者の意思が明確なのだ。
インタビューを元にした作品では、聞き手がその作業にどれほど意識的であるかが重要な鍵となる。冷静でなければならないのは当然だが、その場に立ち上がってくる空気をつかまえ、それを話の展開に活かしていく技量が求められる。先に挙げた阿部と父の死をめぐって対話する部分にはそれがよく出ている。突然、話題が転換するが、どちらもひるまない。聞くほうも聞かれるほうもそうで、この緊張感は演出しようとしても出来ないものだ。なにを聞いてもたじろがない、ブレない姿勢を互いに認めあえたときに生まれる信頼感がこの対話のピークを作っている。
同様のことは「そやけど、ほんまのこと言うていいのかな。さしさわらへんかな」という伯母の言葉にも感じられる。この場合は途中ではなく、最初にこの言葉が置かれたことで親戚関係が浮き彫りにされる。言葉だけで臨場感を積み上げていく手さばきに、小説を創作するのと同レベルの周到さが感じられる。
世間一般には無名とはいえ、北沢恒彦は京都の知識人のあいだでは知られた人物だった。若い頃は「左翼」と「反体制」を心の支えとし、鶴見俊輔らのサークル「家の会」に加わり、京都ベ平連事務局長を務め、『思想の科学』に寄稿しつづけた。五十二歳のときに、大阪市立大学経済学部の大学院にも学んでいる。仕事は京都市役所勤めだったが、ヒラで通し、中小企業診断士として京都中の商店主を訪ね歩いた。定年後はひとりで編集グループ<SURE>を名乗って個人誌「SURE」を発行する一方、京都精華大学で「風土論」を講じた。
知ること、学ぶこと、それを表現することに全エネルギーを注ぎつつも、書かれたものは、黒川が述べるように、「原稿料を稼いで食える種類の文章」ではなかった。ふつの人の何倍もの意欲と努力をもって対したにもかかわらず、それに見合う評価を得たとは言いがたかった。編集者・津野海太郎とのインタビューで黒川は、恒彦が最初の著書『方法としての現場』を出したあと、「あれはきっと、著者に無断で版元が海賊版を重版している。父ちゃんの本は、もっと売れているはずだ」としきりに言っていたと述べている。書き手しての屈託や悔恨はかなり深かったのではないだろうか。だが「彼には、書くべきことがあった。また、それを書こうとする意欲を持っていた。この作業の内側にあっては、渾身の力をもって考え、苦しみながらそこにしがみつき、書くことが生きることであった」。解説にある黒川のこの言葉がすべてを語っている。
鶴見俊輔、丸山眞男、山田慶兒、桑原武夫、中尾ハジメなど、京都知識人の名前が綺羅星のごとく登場し、社会科学に詳しければ、恒彦が思想的にどのように成長していったかをたどることが出来るだろう。一九三四年に生まれ、十一歳で戦後を迎えた少年の魂の遍歴が、そこから浮かび上がってくるはずである。私にそれをする技量はなく、起伏ある生涯を想像するに終わったが、それでも生きることに不器用な恒彦の姿は強く心を打った。まわりから浮いてしまうほどの真剣さがあり、こうと思い込んだらそれに突進せずにはいられない。およそ、バランス感覚などというものとは無縁だった。そのありようを黒川は「マンガ的な滑稽味」と評するが、たしかにそうしたものが行間からあふれて出ており、「自死という終わり方も含めて、北沢恒彦の生涯は、おそらくさほど暗い印象を誰にも残してはいないのではないだろうか」という言葉に深く共感せずにいられなかった。
思うにその明るさは、彼が好きなように生きたという事実から来ているのではないだろうか。途中から家庭を離れてひとり暮らしをし、そういう生活スタイルも含めて彼は何ものにも束縛されず、自由に生きた。彼にとって守るべきものは家庭生活でも、社会的地位でもなく、書くことと学ぶことだった。それさえ保証されれば充分に幸福だったのだ。そうやって自分流のわがままを貫き、周囲にそれを納得させ、人に頼るのを嫌って最後には自死を選んだことに、私はすがすがしいものを感じてしまう。
「伝記」とは、社会で功成り名遂げた人のための器であり、そこに入り切らない人には「小説」という入れ物が用意される。その意味で、この作品から伝わってくるものは限りなく小説に近い。人々のなかに残された彼のイメージや言葉が共鳴しあい、こうしか生きられなかったひとりの男の像が立ち上がってくる。燦然とではないにせよ、その像はたしかな光を放っているのだ。
恒彦が退職後に作り、没後、三人の子供が引き継いだ編集グループ<SURE>から本書は出ている。父の作業がこのようなかたちで受け継がれていることも、心に暖かな余韻を残した。少部数の出版だから値段は安くはないが、こうした本を手にするのは気持ちがいい。SUREの出版する本はどれもそんなたしかさに充ちている。