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『変われる国・日本へ−−イノベート・ニッポン』坂村健(アスキー)

変われる国・日本へ−−イノベート・ニッポン

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 わが国の「イノベーション担当大臣」は誰か。即答できる人はどれくらいいるだろう(答えはこちら)。実は現在、内閣府を中心に二〇二五年までを視野に入れたイノベーション創造のための長期的戦略指針「イノベーション25」なるものが策定され、各省庁レベルでの政策のすり合わせが行われている。本書の著者である坂村健は、この指針策定に当たって組織された有識者会議「イノベーション25戦略会議」のメンバーの一人でもある。

 著者が著名なコンピュータ・アーキテクトであることを考え合わせると、本書において、特定の技術革新を称揚する薔薇色の産業振興策が開陳されているのではと勘ぐる向きもあるかもしれない。確かに、著者が近年力を入れるユビキタス・コンピューティングについても論旨にかかわる範囲で筆が割かれているが、本書の主題はそこにはない。議論の射程は狭義の技術革新の域を大きく飛び越え、その筆致も浮つくところがない。

 たとえばイノベーションについて語られるはずの本書のなかで、二年後の導入が予定される裁判員制度の検討に結構な頁が充てられている。しかもその結論は、同制度の利点や欠点を一方的に並べ立ててその是非を論ずるといった類のものではない。そこでは、「『市民の司法参加』といったきれいごと」が前景化することによって「『精密司法』対『ラフ・ジャスティス』」という制度の設計思想上の論点が覆い隠されてしまった点こそがもっとも強く批判される[一二三頁]。単純化を排した、一筋縄ではいかない議論なのである。

 ここで裁判員制度が俎上にのぼるのは、本書でとりあげられる「イノベーション」なる語の含意が際立って広汎なものだからである。著者はイノベーションに三つの水準を認める。第一の水準は新しい製品を創造する「プロダクト・イノベーション」、第二の水準は新しい方式や運用を創造する「プロセス・イノベーション」、そして第三の水準が新しい制度や構造を創造する「ソーシャル・イノベーション」である。このうち現在の日本に関して著者がもっとも問題視するのがこの最後の水準、「インフラ・イノベーション」や「環境イノベーション」などとも換言される、制度・構造などを変えていく力の弱さなのである。裁判員「制度」もまたイノベーションの一例としてとりあげられる所以である。

 新しい制度や構造、インフラといったものは、他のイノベーションを効率よく生み出すための基盤、著者言うところの「イノベーションを生むためのイノベーション」となりうる。いったん基盤として確立すれば、こまごまとした個別案件ごとの調整を経ることなく、さまざまな「新しいこと」が生み出される可能性があるからである。だが著者によれば、日本はこの「ソーシャル・イノベーション」ないしは「インフラ・イノベーション」を考えつくのが「全くダメ」ということになる。

 日本が製品や運用のレベルでは新しいことを創造できるのに、大規模な制度や構造となるとそれができない原因としてここで採りあげられるのが、「不確実なこと」「完全には責任が取れないこと」にたいするコンセンサスのありようである。著者は、未来を正確に予測すること、誰かが完全な保証を行うことが今後ますます難しくなるとまず認める。その上で、それでも(あるいはだからこそ)日本の文化、ものの考え方、法律の作り方までふくめたありとあらゆるものを変える必要があると説く。この際に重視されるのが「ベスト・エフォート」という考え方である。

 元来、「ベスト・エフォート」なる語はコンピュータや通信の世界でよく耳にする。ネット上で「光ファイバーを引いたら一〇〇Mbps出るって言ってたのに実際には一〇Mbpsそこそこ」などとぼやかれるアレだ。回線速度の最高値は決まっているが回線が混み合ってくると速度が落ちる。システム全体としては最善の努力をなすが、個々の要求については完全に応えることを保証しないという設計思想である。通信品質の保証にも意を配っていた従来の通信システムに比べて、このベスト・エフォート的な発想で設計されたことが、インターネットがかくも普及した一因になったともいわれる。

 著者はこのベスト・エフォートなる概念を換骨奪胎し、日本でソーシャル・イノベーションを実現する上での基本的な考え方の一つに据える。それは「各人ができるかぎり最大限の努力をすることを前提に、全体についての絶対保証はないことを知った上で利用する、すなわち『自己責任』を負う」ことと定義し直される[四九頁]。その上で、一〇〇%の完璧がないことを前提にした上で、新たな制度・構造を積極的に運用していくというベスト・エフォート的な考え方についてのコンセンサスを作ることを日本社会に求める。日本を「変われる国」とするために。

 社会が多様化し、将来が不透明化するなかで、だからこそベスト・エフォート的な割り切りの下に、新たなインフラを創造していく必要があると著者は説く。現に従来からある道路網なるインフラも、毎年一〇〇万人を超える事故死傷者という社会的損失を出しながら、諸主体への責任分担の下なお運用するというコンセンサスが得られているではないか、と。こうして、「絶対」を求めて立ちすくむことなく、とりあえずそれぞれの「最善の努力」を当てにしながら、ケース・スタディや実証実験を積み重ねてソーシャル・イノベーションを実現していくことが求められることになる。

 著者がかくも執拗に制度・構造レベルでのイノベーションを求めるのはなぜか。その背景には、「新しいこと」を構造的に必要としつづける資本主義のなかで、そのイニシアチブを握ることが日本という国家にとってこれまで以上に重要になるという現状認識がある。このように一方で国家単位での制度競争の視点を強調しながら、他方で公共的な責任主体としての国家の役割は、「絶対保証はない」という認識の下で相対化されることになる。著者のこうした立場は、一見すると奇異なものに映るかもしれない。だが本書から少し距離をとってみれば、「ベスト・エフォート」なる新しい意匠の背後にあるものは、(著者自身も「アングロサクソン的伝統」として認めているように)ある意味で近代の原初から見られる発想だともいえる。

 近代においては、「国家」と「個人」なる概念は、それぞれ強い選択性を認められるかたちで相補的に発達してきた。複数の国家間で制度競争が繰り広げられることによって国家に包摂されない個人の観念がリアリティをもつ一方で、個人に創意・決定・責任の一端を帰属させることによって国家への過剰なコスト転嫁も回避されることになる。本書の著者による「(個人の)環境としての国家」への定位もまた、ある意味でこうした近代の初期条件に則ったものといえる。それに対してたとえば「テクノ・ナショナリズム」などとこと新しく呼んでみたとしても、それだけでは恐らく批判の態をなさないであろう。

 むしろ、アーキテクトの立場から(たとえば「市民の司法参加」の如き)「きれいごと」のみを語るような論者を挑発しているのは著者の方なのかもしれない。その挑発を勝手に忖度してみれば次のようにまとめられようか。「さまざまな批判や問題がありうることはとうにわかっている。そうした批判や問題点を現実的に調停する(制度や構造の)『仕様書』に起こしてこい」と。「絶対」や「完全」な立場に自らを擬することを端から棄てて、不確実性を前提に、「実証実験」や「ケース・スタディ」の相でアーキテクチャを形づくっていく知に対して何を語りうるのか。過去日米貿易摩擦に巻き込まれたこともある著者が(屈折したかたちとはいえ)「アングロ・サクソン的コンセプト」を縷々説明するというある意味皮肉な本書は、実はそうした重大な問いも同時に投げかけているように思える。

・参考文献

井上達夫・嶋津格・松浦好治編,1999,『法の臨界II−−秩序像の転換』東京大学出版会.

中西準子,2004,『環境リスク学−−不安の海の羅針盤』

坂村健,2006,『ユビキタスでつくる情報社会基盤』東京大学出版会.

坂村健,2005,『グローバルスタンダードと国家戦略−−日本の「現代」<9>』NTT出版.

佐藤俊樹,1993,『近代・組織・資本主義−−日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房.

宇沢弘文,1974,『自動車の社会的費用』岩波書店.

・目次

第1章 イノベーションとは何か

第2章 イノベーションが日本を変える

第3章 ケース・スタディ型社会を目指して

付録 ユビキタス・コンピューティングの現在

あとがきにかえて


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