『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』大江健三郎(新潮社)
「大江と長嶋」
さすが「文学界の長島茂雄」と言われるだけのことはある。今年になって二回ほど大江健三郎氏の講演を聴く機会があった。5月は勤務先の大学で「知識人となるために」という、どちらかというと学生を対象にしたテーマ。今月は紀伊國屋ホールで本書『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の刊行記念。いずれの会でも氏には、芸というのか、存在感というのか、「そうだよ、これがあの大江さんだよな」と感慨にふけってしまうような、何とも言えない華があった。ちゃんと笑いもとるが、おなじみのテーマにもからんでいく。石原慎太郎の悪口も言うし、奥さんにやっつけられちゃったりもする。口ごもるところは口ごもる。とにかく楽しい会であった。
それでふと思う。作家というのは、こんなに華やかでいいのだろうか、と。筆者は「純文学」という概念を信じてきた古い世代に属するので、作家たるもの、どこか照れくさいというか、「僕が僕で、ごめんナサイ」みたいな、逃げるような、隠れるような仕草に満ちているものではないかと漠然と信じてきた。
純文学なんて古いと否定するのは簡単だが、筆者はまだこのレッテルには有効性があると考えている。純文学というのは、「書くその人」が行間から匂い立ってくるようなもの、ととりあえず言ってみよう。別に私小説である必要はない。暴露ものでなければならないとか、おもしろおかしいプロットがあってはいけないというわけでもない。でも、何かが丸裸になってしまうような身も蓋もない感じや、救いのなさ、あどけなさ、寄る辺なさといった、つまり書いている人のことが「マイナス」として実感されるようなある種の読書体験を指し示すのに、この言葉はちょうど良いのではないかと思っている。そして筆者にとっての純文学の代表選手は、ずっと古井由吉であった。
それでは長嶋茂雄は、純文学の選手ではないのか。
筆者は大江氏ご自身の講演を聴くのは5月の会がはじめてだったが、氏の作品はいろいろ読んできた。その目指すところが、明らかに主流というか、最高峰というか、どこかメジャーな世界に向かっていることはよくわかる。
しかし、筆者が大江氏の作品の中でもとくに惹かれてきたのは、あんまりメジャーすぎないような、むしろちょっと小さめに構えたような短編連作風の作品であった。『河馬に噛まれる』とか。『静かな生活』とか。こうした作品には、大江氏の「マイナス」の部分がたいへん良い感じで出ているような気がしてきた。逆に言えば、筆者は大江健三郎という作家にもやはり「純」なものを求めていたのだろう。
今回の『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』にもまた、筆者は「マイナス」の香りを感じた。映画を作るの作らないのといったストーリーはあまりに地味でかつ混沌とし、おそらくそれを要約してもこの小説の読後感はまったく伝わらないだろう。この作品をストーリーで語る人は、ちゃんと読んでない証拠だと思う。
大江氏の人物たちには、見知らぬ他人に向かっていきなり自分の友達の名前を持ち出してもわかってもらえると信じている小学生のようなところがある。世界が自分と等身大だと信じるような無邪気さ、構えのなさ。その狭い世界の中では、すべての人が旧知の間柄のようにして振る舞うのである。典型例は本書の中心人物となる木守有(こもりたもつ)。冒頭部の木守の唐突な登場と、彼の語り手に対する妙ななれなれしさとは、この小説の距離感のなさを象徴するものだろう。
― What! Are you here?
英国風に発音する日本人の英語で、そういって肩を寄せる相手を見直すと、思いがけない人物だった。それでいてしかも、ついこの間、私ら親子が、人前で困った情況にあるところを見守る群衆のなかにこの男がいた、確かめる暇はなく、そのままになったが、と思い当たった。あれは幻影を見たのだったかという気がするほど、きわめて様変わりしていながら特殊な感じに昔通りだった、と思い出しもしていた。
― なんだ、君はこんなところにいるのか、……ということかい?
― その通りの言葉を返すだろうと思ってね、仕掛けてみた。
― 相変わらずだね、様ざまな意味でさ。何年ぶりだろう?
― 三十年ぶりだ、と眉の間の白皙の皮膚に皺を寄せていって(それも昔通り)黙り込むと、こちらを測るようにしていた。
こうした狭さや唐突さを、「他者が描けてない」と批判するのは野暮なことのように思える。木守の出現につづくいちいちの展開に、一貫して遠近法的な奥行きが欠け、まさにそのおかげで大江氏ならではの、小さな世界の心地よさのようなものがつくりあげられていく以上、そこには何か別の原理が働いていると見るべきだろう。
ある時期からの大江氏の作品には、頻繁に英語の詩が登場する。本書でもモチーフになっているのは英詩である。中心となるのはタイトルにもとられている「アナベル・リイ」だが、先の引用部はT・S・エリオットの『四つの四重奏』からの一節を下敷きにしたものである(そのエリオットが下敷きにしているのはダンテだが)。大江氏の文章はどうも、こうした詩作品からの言葉を無事着地させるための滑走路のようなものを提供するべく練り上げられてきたのではないかという気がする。
かつてJ・S・ミルが言った、詩についてのたいへん有名なコメントがある。「雄弁はしかと聞かれるものだが、詩はたまたま聞こえてくるものである」(Eloquence is heard; poetry is overheard)。「たまたま聞こえてくる」というのは、大江氏の作品を読むときの実感にたいへん近い。考えてみると、大江氏の描く小さな世界というのは、ほとんどの読者にとっては縁のないような「駒場」とか「四国の村」とか「母親」といった諸イメージを、何の手続きも、遠慮も、遠近法もなく、いきなりぬっとあの木守有のようにして出現させることで成り立ってきた。
すべてがすでに始まっている。みんな知り合いらしい。そういう小説作法が昔からなかったわけではないのだが、ふつうは後からきちんと導入がある。しかし、大江的作品においては、読者たる我々はそういうぎゅうぎゅう詰めみたいな世界でかわされるやり取りを、ただ「たまたま聞く」ことを強いられる。みんな旧知で、身近で、訳知りで、また、わけあり。すべての固有名詞に「あの例の、」と「いわく」がついてしまうような世界。ちょっとファンタジックで、幻のようで、悪夢のようでもあるけど、何とも言えないやわらかさもある世界。そして語り手が異様に露出しているのだけど、どこか引っ込んでもいるような世界。ひょっとすると、紀伊國屋ホールで長嶋茂雄みたいにスポットライトを浴びていた大江氏にも、こんな風に見えないままにしてあった部分があったのかなとも思う。
大江氏の英詩との付き合い方はおもしろい。エリオットがくるかと思うとポオ。かつてはブレイク。イエイツ。R・S・トマスにも関心があると聞く。これはたいへん渋い。でも、いずれはやっぱりワーズワスに辿りつくのではないか、と幾分の期待をこめて予想しておこう。