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『アンコールの近代-植民地カンボジアにおける文化と政治』笹川秀夫(中央公論新社)

アンコールの近代-植民地カンボジアにおける文化と政治

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 本書を読んで、まず考えさせられたのは、文化遺産はなにに帰属するのだろうか、ということだった。アンコール、イコール、カンボジアというのは、フランス植民地期につくられ、独立後も共産主義勢力下でも、それが受け継がれたことが、本書で明らかになったからである。また、現在のタイの王宮には、アンコール・ワットの模型がある。カンボジアの王宮にもある。アンコール・ワットが存在しているシアム・リアプを含むアンコール地域が、シャム(1939年にタイに改称)からフランスに割譲され、フランス領インドシナの一部になったのが1907年のことであることを知っていれば、なぜバンコクの王宮にアンコール・ワットの模型があるのかも理解できるが、観光客のほとんどは知らないだろう。


 東南アジア大陸部の文化遺産を見ていくと、現在の国境の枠組みではおさまりきらない歴史を感じざるをえない。バンコク周辺にも、モン人の遺跡があり、クメール(カンボジア)様式の寺院もある。漢籍に登場する扶南は、1~7世紀のクメール人の古代王国とされるが、ベトナムやタイの古代王国ともされる。近年、高句麗が中国の1地方政権か朝鮮人の王国かが、歴史問題として政治化したが、東南アジアの現在の国家の歴史を語るときにも、同じような大きな問題がある。文化遺跡は、それがある土地に帰属するのか、民族に帰属するのか、継承された王国・国家に帰属するのか、・・・。


 この問題をより複雑にしている1因に、王国の継承問題がある。アンコール朝とよく言われるが、多くが簒奪王によって続いたのであって、血縁的な繋がりはない。タイでもビルマ(現ミャンマー)でも、○○朝と呼ばれるが、連続性のない王国と考えたほうがいい。たとえば、13世紀なかごろに建国されたと推定されるスコータイ王国は、1351年ころ南方に勃興したアユタヤ王国に滅ばされたわけではなく、王国は存続し1438年に直系が絶えてアユタヤ王国に併合され、1地方勢力になったにすぎない。その後、1569~1630年には、スコータイ一族からアユタヤ王国の王を出している。スコータイ朝とかアユタヤ朝とか呼ばれるが、大小さまざまなタイ系の諸王国を代表していたにすぎなかった。


 このような東南アジア大陸部の社会や文化的な背景を理解していなければ、本書を満足に読むことはできないだろう。そして、本書は、一般に信じられている近代につくられた、画一的な東南アジア諸国のイメージから解放させてくれる基本的な研究書である。


 本書の内容は、箱の裏に書かれているつぎの要約でよくわかる:「いまやカンボジアの象徴とみなされるアンコール遺跡は、いかにして人びとに「発見」され、受容されてきたか。植民地化以前の語りにはじまり、植民地時代の教育雑誌や宮廷舞踊、さらには独立後のナショナリズムとの関連で、アンコールがどのように位置づけられてきたかを厖大な現地史料を駆使して検証する」。


 本書の目的も、つぎの3つの主題からよくわかる。第一の主題は「フランスが創り出したアンコール観を受容する際、カンボジアの人々がどのような取捨選択を行なったか」を論じることであり、第二の主題は「フランスとは無関係に、カンボジア独自の語りが存在したかどうか」、そして、第三の主題は「植民地時代に構築されたアンコール観が、遺跡そのものやアンコール史だけでなく、より広汎にわたる影響力を持っていたこと、そして現在でも影響力を保っていることを検討する」。そして、「序章」の最後で、「アンコールは、アンコール時代で完結した存在ではない」、「近代カンボジアにおけるアンコールの検証には、植民地時代に焦点を定め、アンコール研究ではなく、カンボジア研究としてアンコールを分析する視点が希求される」と結んでいる。著者笹川秀夫は、史料的に限界のある「アンコール研究」を越える研究の重要性を、力強く主張しているのである。


 著者は、このような問題意識・目的意識をもって考察した結果を、「終章」で「植民地の遺産としてのアンコール」と「多数のアンコール、多様なアンコール」の2説にわけて論じている。まず、「植民地化にともない、カンボジアに近代という時代が到来したことで、「伝統」を創出する条件や環境が生み出された。そして、アンコールこそが、フランスによる支配を正当化するために創られた「伝統」だったといえる。アンコール時代を「栄光」の時代、ポスト・アンコールを「衰退」の時代とする歴史観は、植民地支配を正当化する言説と結びついた。シャムとベトナムによってカンボジアの「領土」が蚕食されたとする歴史叙述は、フランスによるカンボジアの「保護」を正当化した。遺跡が崩壊の危機を迎えていることや、宮廷舞踊という「伝統」が「衰退」の危機に瀕していることを主張する言説は、フランスが遺跡を修復し、「伝統」を「保護」する根拠と見なされ、アンコールを中心とした文化政策を推進する力となった」と結論づけ、つぎに「近代は、アンコールに政治性という新たな要素を付加した。こうしたアンコールの政治性は、国家による管理を促す一方で、国家以外の主体がアンコールの複製作業に関与し、複製されたアンコールにも宗教性を付与するという現象を生み出した。アンコールは、その多様性を拡大し続けている」と、過去を明らかにする「アンコール史研究」とこれからのカンボジア社会を考える「カンボジア研究」の結合を唱えて、終わっている。


 本書は、博士論文に基づいている。東南アジア研究は、国語や植民地宗主国の言語という枠組みからスタートするため、ナショナル・スタディーズになる傾向がある。これを克服して完成度の高い論文を書くことは、限られた年数内では無理なことだ。まずは、「立派な」ナショナル・スタディーズの論文を書き、その限界を明らかにして、つぎに備えることだろう。その意味で、本書は「序章」「終章」から、つぎに期待できるものを感じた。国民国家という枠組みを前提とした近代科学では理解できない、東南アジア大陸部世界が出現する可能性である。そこには、現在国家をもたないモン人やチャム人なども、生き生きと登場することだろう。そのためにも、本書のような基本的な研究の積み重ねが必要だ。

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