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『虹の少年たち』アンドレア・ヒラタ著、加藤ひろあき・福武慎太郎訳(サンマーク出版)

虹の少年たち

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 校長先生の自転車をくせ毛の細身の少年が懸命にこいでいる。荷台には、小柄な少年が顔を空に向け、目をつむって両手を広げている。右手には、チョークの箱を持っている。こいでいるのが、本書のおもな語り部であるイカル、荷台にいるのが俳優志望の漁師の子で、後に有名な多国籍企業のITマネージャーになるが、それでも俳優になる夢をあきらめないシャダン、最後の節の語り部でもある。表紙を飾るこれらの少年たちが、本書の主人公「虹の少年たち」10人+のうちの2人である。


 「小説の舞台はスハルト大統領による独裁政権が続く一九八〇年代、インドネシアスマトラ島の南沖にあるブリトゥンという小さな島だ。天然資源に恵まれたこの島で、国営の開発公社は錫を掘削し莫大な利益を挙げていた。しかしその利益が全島民に行き渡ることはなかった。校舎は傾き、教師たちはほぼ無給、制服すらない貧しい学校から物語は始まる。この学校に主人公のイカルを含めた十人の個性的で魅力的な子どもたちが集まり、さまざまなことを経験しながら共に成長していく。ハルファン校長先生と担任のムスリマ先生はそんな彼らを温かく見守り、彼らに生きていくうえで大切なことを語りかける」。「どんな困難な状況にも諦めずに立ち向かっていく子どもたちはやがてそれぞれの才能を発揮し、八月十七日の独立記念日に行われる芸術祭で最優秀賞をとったり、学校対抗知力コンテストで優勝したりと、閉校寸前だった学校の名誉を取り戻すような偉業を成し遂げていく」。


 物語は「虹の少年たち」が「中学を卒業して十二年後が描かれたところで終わる。彼らは人生をそれなりに楽しんでいるが、必ずしも子どものころに思い描いたような未来を歩めていない。あれほど知的で才能豊かな子どもたちであっても、貧困という現実を変えることができない物語の展開に、誰もが言葉を失ってしまう。でも希望がないわけではない。一筋の希望の光を感じさせつつ物語は幕を閉じる」。


 「インドネシアで500万人以上の人々を熱狂の渦に巻き込んだ小説」の日本語訳で、すでに19ヶ国語に翻訳されている。映画化され450万人が映画館に足を運んだといわれ、その主題歌も大ヒットした。「ムスリマ先生と限られた友人にのみ読んでもらおうとヒラタが書いた原稿を、友人が勝手に出版社に送ったことから始まったこのサクセスストーリー」は、社会現象を生み出すに至った。


 本書が多くのインドネシア人に受け入れられた理由は、「この物語の中で描かれる数々のエピソードが、多くの人々が似たようなことを体験したことのある懐かしい思い出、風景を感じさせてくれるためでもある。一九九八年のスハルト大統領辞任とともに民主化が進み、そして経済成長著しい近年のインドネシア社会において、本作はある種のノスタルジー、過ぎ去りし日への郷愁をもって迎えられたのだ」。


 では、日本人の読者は、本書のどこに焦点をあてて読んだらいいのだろうか。サクセスストーリーでも、ノスタルジーでもないだろう。日本人、とくにいまの若者にないもの、それは本書の表紙に書かれている。「貧しかった、でも、夢があった」「苦しかった、でも、充実していた」。夢をもち、充実した日々を過ごすためには、校長先生が言った「最大限受け取る人ではなく、最大限与える人になりなさい」ということばを、よく噛みしめることだろう。そして、本書に出てくる「まるで日本軍の尋問所のような」という日本軍の負のイメージを払拭し、新たな日本・日本人像をインドネシア人にもってもらうためにはどうしたらいいのかを考えることだろう。


 「虹の少年たち」が思い描いた「夢」は、つぎのようなもので、これらの夢からインドネシア社会が垣間見えてくる。村の大会で優勝したイカルは、「名声を獲得したバドミントン選手になること、そして影響力のある作家となること」。「気が強い美しい女の子」サハラは、「フェミニストの人権活動家」。「この考えはインド映画に出てくる女性たちが置かれた異常な抑圧状況を見て生まれた」。「フランケンシュタインのような容貌の貧農華人の息子」アキョンは、「船長になることだ。遠出をするのが好きだからか、もしくはその缶詰のような形をした頭を船長の大きな帽子で隠したいのかもしれない」。学級委員長のクチャイは、「ビッグマウスで、ちょっと鈍いところがあって、押しが強いポピュリスト、そしてちょっと狡猾なディベイター、恥ずかしいと思うことがない。その将来の夢は明白だ。彼は政治家になりたいのだ」。クラスの演劇でいつもセリフを間違えていた漁師の息子、シャダンは、「俳優になりたいと言いきった」。「音楽、美術など芸術の天才」マハールは、「映画監督であると同時に「ハイパー・セラピスト」というスピリチュアル・アドバイザー」。ボディビルディングにはまっていたサムソンは、「ただ映画館のチケット切りになりたい」。「ただで映画を見ることができるというのがその理由だ」。「性格も外見もいいトラパーニは教師」。知的障害をもつハルンは、「トラパーニになりたいと答えた」。そして、貧しい漁師の子で、数学・物理の天才、リンタンは「数学者」だった。


 さて、彼らが中学を卒業して12年後、どうなっているか。本書の終わりのほうでわかる。本書は4部作の第1部で、続編の3部がある。「小説としてのクオリティは作を追うごとに高まっており、続く翻訳が待たれる」。そのとき、もう少し表紙のような写真や地図が欲しい。だが、想像をかき立てるためには、本書のようになにもないほうがいいのかもしれない。


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