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『JOHNNY TOO BAD 内田裕也』モブノリオ、内田裕也(文藝春秋)

JOHNNY TOO BAD 内田裕也

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 『JOHNNY TOO BAD 内田裕也』は、モブノリオの書き下ろし小説「ゲットー・ミュージック」と内田が1986年に「平凡パンチ」で行った連載対談「内田裕也のロックン・トーク」を一冊に収めた特異な書物である。装丁は二冊が一枚の表紙でとめられた作りになっており、それをはがすとそれぞれの独自の本となっている。
 「ゲットー・ミュージック」は、『十階のモスキート』、『コミック雑誌なんかいらない』のシナリオ、ドゥボールブレヒト、ピーター・トッシュ、スウィフト、バンスキー、サイードの引用から始まり、老アントニオによって締めくくられる内田裕也の「評伝的(な要素を含んだ)小説」である。言い換えれば、小説による内田裕也論と呼ぶことができよう。そして、「ロックン・トーク」は、動労千葉の委員長・中野洋から始まり、新右翼野村秋介大日本愛国党赤尾敏岡本太郎中上健次武智鉄二黒田征太郎堤清二戸塚宏、アン・ソンギ、スパイク・リーと左右両陣営、文化、経済人から海外の作家まで、あまりに多岐に渡り、全体像を掴むことさえ難しい。しかし、冒頭でこう宣言されている。



「硬派でいく。ウジャジャけた人間は登場しない。ロックン・トークは、アホもオチャラケも大好きな我がパンチのなかで、独立区として異彩を放つ。パワフルな男、ステキだぜ。過激、いいじゃねーか。内田裕也だッ。文句あっか! とりあえずロックだ。ロックのノリで各界で活躍している人々を、ロック・バカ、裕也が直撃する。ハート・ビート・バイブレーション(心うつ衝撃派)ーこいつを感じさせてくれる人なら、右・左・タテ・横・ナナメ・有名・無名、関係なしに登場してもらいたいと思っている。なんか世の中、ツマンネエと感じているキミ、ホントにそーかな。スリリングに生きることだって可能だってことを、この対談を通して知ってもらいたいネ。」



 そして、宣言通り「ロックンロールをやっている内田裕也です。」という自己紹介から始まり、内田のロックンロールという「倫理」によって、対談者の思想、表現、行動が評価され、話が進められていく。80年代半ばという高度消費社会の形成過程で、このような人選の対談シリーズが成立していたことに大きな驚きを覚えるが、しかしこの対談が標的にしていたのが、まさにそうした発展していく日本の資本主義であったのだ。よって、徹底して暴力が、革命が肯定され、内田、中上対談は、一国主義的な表現ではなく国際主義を称揚しながら、中上の以下の発言で締めくくっている。



「サミット警備で検問なんかしてたけどさ、爆弾持っているかどうかより、ここに俺がいること自体が非常に危ないとね。爆弾なんかよりも、もっと危険だと。で、事実、俺たちは爆弾よりもずっと危険なんだな。」



 80年代以上に、自主規制や自己検閲が進み、政治的、社会的発言が難しくなった現在、あまりに率直でラディカルな発言の数々から学ぶところは大きいだろう。最近、80年代の再評価が進められているが、映画、音楽はもちろん、本書のような活動を含めた内田裕也を検証することなしには、可能性としての80年代を見過ごすこととなるだろう。 

 

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