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『ソラリス』 スタニスワフ・レム (国書刊行会)

ソラリス

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 スタニスワフ・レムの『ソラリス』はSFのみならず、20世紀文学の古典といっていいが、沼野充義氏によるポーランド語原著からのはじめての直接訳が2004年に国書刊行会の「レム・コレクション」の一冊として出版された。

 この作品がはじめて日本語になったのは1965年のことだった。早川SFシリーズから出た飯田規和訳で、『ソラリスの陽のもとに』という題名で親しまれた。わたし自身、飯田訳によってこの作品を知った。日本語としてこなれた文学性ゆたかな訳文で、現在も文庫で入手可能だが、ロシア語からの重訳という根本的な問題があった。

 飯田訳が底本としたロシア語訳にかなり欠文があるという話はSFファンの間では早くからささやかれていたが、原著がポーランド語という容易に接近できない言語だったために、しだいに尾鰭がついていった。タルコフスキーの映画が公開された頃には原著は邦訳の倍以上の長さがあるという噂まで流れていた。その後、沼野氏による『金星応答なし』のポーランド語訳が出て、ドイツ語からの重訳が 1/3も削られていたことがわかり、噂を補強する結果となった。しかし、今回の沼野訳によって欠文は400字詰原稿用紙換算で40枚(全体の7%)ほどだったということがはっきりした。

 7%の欠落は無視できない分量だが、原著は倍以上あるというデマにやきもきしていたことからいえば、意外に正確だったという印象になる。せっかく新訳が出たのに、3年間積ん読をつづけた理由である。

 さて、レムの最後の長編小説『大失敗』が「レム・コレクション」にはいったのを機に、沼野訳で読みなおし、飯田訳との相違点を確認してみることにした。

 まず、どこが欠文になっているかだが、不注意の脱落を除くと、ソラリス学の部分に集中していた。たとえば、飯田訳192頁に

<対象物>とはどういうものであるかが一目見ただけでわかるような模型をつくり出そうという努力も精一杯なされた。しかし、いずれにしろ、成果と言いうるようなものは何も得られなかった(下線、引用者)。

とあるが、ポーランド語原著には下線部分はなく、代わりに邦訳にして8頁分の記述(197~204頁)がつづいていた。脱落部分の最初を引いておく。

 対称体のことが一目でわかるような、手ごろな模型モデルを考案しようとする試みにもこと欠かなかった。その中ではアヴェリアンの例がかなり広く知られるようになった。彼はこんなふうに説明したのだ。はるか昔の、バビロニアが栄華をきわめた時代の地球の建築物を思い描いてみよう。しかも、それは生きていて、刺激に敏感で、進化する物質からできていると考えよう。その建築術は滑らかに一連の段階を経てゆき、、私たちの目の前でギリシャからローマの建築様式を選び取り、それから円柱が草の茎のようにほっそりとし、丸屋根が重さを失う。そして丸屋根は姿をかき消してどんどん尖り、アーチは切り立った放物線に変容し、頂点でぽきんと折れてすらりとそびえ立つ。……

 ソラリスの海の原形質が仮に形をとったオブジェを生きた建築に見立てる記述が延々とつづくが、それをロシア語訳者は「成果と言いうるようなものは何も得られなかった」という文に要約していたのである。こうした架空の学問の蘊蓄は作品の重要な要素だが、ストーリーを楽しみたいだけの読者には邪魔になる。適当なところではしょろうということだったのかもしれない。

 その一方、沼野氏はイデオロギー上の理由によって検閲がおこなわれていたことも指摘している。

 最初のロシア語訳が出た1962年はスターリン批判後の「雪解け」の時期にあたり、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が世に出るなど文芸界に新風が吹いたが、検閲は依然としてつづいていた。1976年になってようやく完全なロシア語訳が出たことからいっても検閲で削除された部分があるのは間違いないが、日本の感覚からするとどこが該当部分なのかわからない。「神」という言葉自体がタブーだったということらしい。

 欠文とは別に、重訳という二重のフィルターを通したことによる歪みが随所に見られる。たとえば、ソラリスの海の不可解さを述べた部分。まず。飯田訳。

 一方、ソラリスに関するありとあらゆる文献を熱心に読みふけっている者たちは、その海が知的な存在であるとはいうものの、なんらの秩序ももちあわせない気違いじみた生物ではないかという印象をますます深くしていた。そこから、<賢者の海>という概念のアンチテーゼとして<悪魔の海>という考えが生まれた。

 「賢者」と「悪魔」という対立概念は、沼野訳ではこうなる。

他方、ありとあらゆるソラリス関係文献ソラリアナに食い入るように読みふけっているうちに、人はこんな印象を禁じえなかった――自分が相手にしているのは、確かに知的な、ひょっとしたら天才的な構築物の断片なのかもしれないが、そこには狂気すれすれの、手のつけられない愚かさの産物が支離滅裂に混ざっている。そのため、「ヨガ行者の海」という概念に対するアンチテーゼとして、「白痴の海」という考えが生まれたのだった。

 旧訳を鵜呑みにしてレムはソラリスを「悪魔」とみなしていたと考えたら間違いをおかすことになる。レムはソラリスに善悪の概念がはいりこまないように細心の注意をはらっていたのである。

 沼野訳を読んでいくとレムの思考の緻密さがよくわかる。レムを論じるには沼野訳を基礎としなければならないが、思弁的な部分以外では、飯田訳にも捨てがたい味わいがある。

 ハリーが自殺する直前の条を、まず沼野訳で引用する。

今日のハリーは何をやるにもいつもと違うふうだったが、それがどんな違いかはうまく説明できない。周囲をじっと見つめ、私が話しかけても上の空のとが多く、突然、何かを見つめた。一度、彼女が顔を上げたとき、その目がガラスのようにきらきらと光っているのが見えた。

「どうしたんだい?」私は声を低めて、囁いた。「泣いているの?」

「ほっておいてちょうだい。どうせ本物の涙じゃないんだから」口ごもりながら、彼女は言った。

 同じ箇所が飯田訳ではこうなる。

この日のハリーはいつもと様子がちがっていた。しかしどこがちがっているかははっきり言えなかった。ハリーはしじゅうあたりを見まわしていて、いくら私が話しかけても、まるで物思いに沈んでいるように、聞いていないことのほうが多かった。とかくするうちに、彼女がふと頭をあげたひょうしに、その目がきらりと輝いたのを私は見逃さなかった。

「どうしたんだい?」私はささやくように声を低めてたずねた。「泣いているの?」

「ちがうわ、気にしないで、本当の涙なんかじゃないわ」ハリーは言葉をにごした。

 沼野訳のハリーは気の強い女性が一時的に鬱におちいっているという感じだが、飯田訳のハリーは嫋々として、最初から憂愁の色をたたえている。タルコフスキーのハリーは飯田訳の印象に近いと思う。

 両訳を読みくらべてみて、飯田訳とタルコフスキーの映画との親近性を感じた。ロシア語訳に原因があるのかどうかはわからないが、ロシア・インテリゲンチャデカダンスが濃厚に反映しているようなのである。

 一方、沼野訳を読むと、レムがタルコフスキーに激怒した理由がよくわかる。水と油というか、タルコフスキーとは肌あいがまったく違うのだ。レムはロシア・インテリゲンチャの思いいれなんか勝手にいれないでくれと叫びたかったのではあるまいか。

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