『歴史を変えた気候大変動』 ブライアン・フェイガン (河出書房新社)
『千年前の人類を襲った大温暖化』の8年前に上梓された本だが、内容的には補完しあう関係になっている。『大温暖化』では同時代という切口で切り、中世温暖期はヨーロッパと北米以外の地域では大旱魃期だったことをあきらかにしたが、本書では時間軸方向に視線を転じ、中世温暖期につづいてやってきた小氷期を描いている。
寒冷化のきざしは1315年にあらわれた。1315年は気温が低下した上に嵐と長雨が襲い、農作物に打撃をあたえただけでなく、北海沿岸の干拓地を海没させた。翌年も冷害がつづき種籾さえ底をついた。その後も天候の不順がつづき、1317年から8年にかけての冬期には多くの家畜が餓死した。1320年代になって天候は回復するが、家畜の不足のために耕作ができず、多くの農地が放棄された。
小氷期は単に気温が低下するだけでなく、寒暑の差が烈しくなり、異常気象が頻発した。特に嵐がたびたび襲った。1362年の冬にも大嵐が襲い、オランダでは
1588年にスペインの無敵艦隊は劣勢の英国艦隊に敗れるが、その敗因は嵐に二度つづけて遭遇し、決戦前に大損害をこうむっていたからだと見られている。
中世温暖期の満ち足りた時代は終わり、飢えと疫病の時代に突入した。フェイガンは書いている。
飢饉がいっそう深刻化したのは、その前の世紀に人口が急増していたからである。十一世紀末に約一四〇万人だったイングランドの人口は、一三〇〇年には五〇〇万人にまで増えていた。フランスの居住者は、十一世紀末の約六二〇万人から約一七六〇万人、ないしそれ以上に増えていた。一三〇〇年には、これまでよりも高度や緯度の高い場所で穀物が栽培されるようになり、ノルウェーには五〇万人が暮らしていた。だが、経済の発展は人口増加と同じ速度では進まなかった。地方経済はすでに一二五〇年には停滞をはじめ、一二八五年以降はどこでも成長の速度がにぶった。
現在のアルプスでは氷河の後退が問題になっているが、当時は前進が恐怖の的となっていた。氷河に呑みこまれそうになった村の住民は氷河の突端まで聖像を押してて行進し、司教にミサをあげてもらったという記録が残っているそうである。
悲惨なのはグリーンランドである。グリーンランドの植民地は牧畜で自給自足していたが、中世温暖期が終ると牧草が育たなくなった。沿岸には流氷が増えて航海が危険になり、ノルウェイ本国との連絡が何年も途絶えるようになった。最後の船から150年後、探検隊が訪れると植民地はゴーストタウン化し、住居には牛の蹄だけが残されていた。最後の生存者はどうしても食べられない蹄以外の部分をすべて食べつくしたのだろう。
その一方、危険な北洋に乗りだす船乗りもいた。目当ては鱈だった。
キリスト教会は金曜日と四旬節の40日間に赤肉と熱い食物をとることを禁止したが、魚と鯨肉は海でとれるので「冷たい食物」とされたので重要な蛋白源になった。中でも最長二年間保存できる干し鱈は重宝された。
中世温暖期の間、鱈の漁場はノルウェイ沖だったが、寒冷化とともに南へ移っていった。バスクや英国の漁師は鱈を追ってアイスランド沖、グリーンランド沖、最後は北米沖にまで船を進めた。
グリーンランド植民地が築かれた直後、アメリカ大陸は発見されていたが、その事実は隠され、アイスランドでサーガの中に語り伝えられるにとどまった。アメリカ先住民に阻まれたので定住はできなかったが、木材を伐りだすために定期的に訪れていたらしい。
バスクと英国の漁師たちもアメリカ大陸の存在を知っていた可能性が高いが、外部に漏らされることはなかった。
バスク人は山岳民族だとばかり思っていたが、実は恐れ知らずの船乗りで、優秀なバスク船は重要な輸出品になっていたという。イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを産んだ土地だけのことはある。
陸でも小氷期に立ち向かう人々がいた。農業革命の推進者たちである。
農業革命は北海沿岸とオランダではじまり、その成功がオランダの繁栄を支えた。英国の
エンクロージャーはマルクス主義系の学者たちからは資本の原始蓄積の手段として否定されてきたが、非マルクス主義系の歴史家からは農業革命として評価されてきた。フェイガンは後者の立場で、エンクロージャーのおかげで英国は不順な天候の年でも餓死者を出さずにすんだとする。むしろ人口は増え、その余剰人口が都市に移って産業革命をささえる労働者となった。マルクスは土地を奪われた農民が都市に流入したとしたが、集約型の大規模農業は農業労働者を必要とするので実際は人口の増えた分が都市に向かった。
対照的なのはフランスである。フランス貴族は農業にはまったく関心がなく、農村は旧態以前のままだった。しかも、貧しい農民までもがジャガイモを嫌い、麦から作るパンに固執したので天候の変化が社会不安に直結した。
フェイガンは英国が漸進的な改革に成功し、フランスが革命に突っ走った要因の一つは農業革命に成功していたかどうかだとしている。
一七八八年の気候は、もちろん、フランス革命を起こした最大の要因ではない。しかし、穀類やパンの不足や食糧難による苦境は、革命勃発の時期を決定するのに大きな役目をはたしていた。何世代にもわたってつづく慢性的な飢えによって生じたフランスの社会秩序の脆さは、一七八九年夏の歴史的事件の前の暴動を起こす引き金となった。「一七八九年の大恐怖」はフランス国民の大半を集団ヒステリー状態にさせ、フランス革命を引き起こし、農民を政治の舞台に引きずりだしたのである。
フランス革命の主役を農民としていることに疑問を持つ人がいるかもしれない。フランス革命はブルジョワジーが主導したのではなかったかというわけだ。しかし、フランス革命がブルジョワ革命だというマルクスの説は間違っていたことが明らかになった。ルネ・セディヨの『フランス革命の代償』あたりを読めばわかるが、ブルジョワジーが台頭してくるのは革命後40年以上たってからで、革命当時のフランスでは弱小勢力にすぎなかった。
フランス革命のような流血の混乱をまねかないためにも、農政は重大なのである。今、異常気象が頻発する時期にはいっているが、政治の役割はいよいよ重くなるだろう。