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『ヒトは食べられて進化した』 ドナ・ハート&ロバート・サスマン (化学同人)

ヒトは食べられて進化した

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 表題はセンセーショナルだが、論旨は明解である。森を出て、見通しのいい草原で暮らすようになった初期人類は肉食獣のかっこうの餌食にされた。ヒヒのような牙をもたない非力な彼らは生きのびるために知能と言語を発達させるしかなかった、というわけだ。

 ヒトは肉食獣に食べられないために知能を発達させたという指摘に、なるほどと思ったのはわたしだけではないだろう。ほとんどの日本人は、地動説を抵抗なく受けいれたように、人間=獲物説をすんなり受けいれると思う。

 ところが、西洋人は違うらしい。万物の霊長であるヒトが肉食獣の餌食にされるはずがないと決めこんでいるようなのだ。いや、ヒトだけではなく、サル全般が肉食獣の餌食になることはないと信じられてきた。事実はまったく逆なのに。

 本書は第三章から七章まで全体の半分の量を費やして、ヒトを含むサル類が豹やチーター、ピューマ、ライオン、虎、熊、狼、ハイエナ、ジャッカル、オウギワシ、カンムリクマタカアナコンダ等々に食べられてきたことを一々実例をあげて論証している。御苦労様と言うしかはないが、雑学的にはおもしろい部分である。

 珍しい話を集めているが、アフリカ奥地に出かける宣教師のために作られた『蛇に呑みこまれた時の心得』という小冊子には爆笑した。この『心得』によると、大蛇に遭遇したら逃げてはいけないのだそうである。大蛇の方がヒトより速い上に、大蛇は動く獲物を見つけると、胴体に巻きついて窒息させる習性があるので、死んだふりをするべきなのだ。死んだふりをしていると、大蛇は口を大きく開けて足から呑みこみはじめるが、ここで身動きすると巻きつかれるので、絶対に動いてはならない。腰のあたりまで呑みこまれたところで、やにわにナイフを取りだし、大蛇の口の端から切り裂いていけばよい、云々。蛇に腰まで呑みこまれているのに、死んだふりをつづけられるのだろうか。そもそも、頭から呑みこまれたらどうなるのか。

 西洋人にとってヒトは狩る側であって、狩られる側であるはずがない。つい最近までヒト=狩人説が自明のこととしてまかり通っていた所以である。

 ヒト=狩人説を提唱したのはレイモンド・ダートだった。ダートはかつてヒト=死肉あさり説を提出したが、1950年代になって、殴られて凹んだようなヒヒや初期人類の頭骨が発見されると、そうした凹みを作ったのはヒトで、ヒトは狩りをうまくやりとげるために知能を発達させたとした。ヒトは狡賢く凶暴な狩人であり、時には仲間殺しもやる罪深い存在だというわけだ。

 植物食と考えられていたチンパンジーが集団による狩りをおこない、獲物の肉を食べていたという発見は仲間殺しの発覚とともにヒト=狩人説を補強した。チンパンジーや初期人類の「悪魔めいた凶暴さ」が強調され、殺し屋サルキラー・エイプ説がとなえられるにいたった。

 この流れを決定づけたのは1966年にシカゴ大学で開かれたシンポジュウムと、その発表をまとめた "Man the Hunter"(『人間、狩りをする者』)という本だったようだ。日本ではなぜか訳されていないが、欧米では大きな反響を呼んだという。本書は "Man the Hanted" という原題からもわかるように、同書に反駁するために書かれたといっても過言ではない。

 今では頭骨の凹みを作ったのはヒトではなく豹であることがわかっている。豹の牙の形状と頭骨の凹みの形状が一致したのである。ヒヒや初期人類は豹に捕らえられ、頭から齧られていたのだ。チンパンジーの「狩り」にしても、果実や木の芽をあさっている時に、獲物に遭遇した場合に偶発的に起こることであって、最初から獲物を物色しているわけでは決してない。仲間殺しにしても、最近は人間の干渉によって集団が歪んだ結果であり、自然状態ではありえないとする説が有力ということである。

 ダートは死肉あさり説時代から肉食の重要性を力説してきたが、歯列や歯の摩耗具合の研究から、初期人類は植物中心の雑食だったことが判明している。よくマンモスを集団で狩りたてている想像図があるが、大型哺乳類の肉を大量に食べるようにはヒトの体はできていない。歯は生肉の繊維を切断することができないし、消化器も肝臓も大量の生肉には対処できない。肉食文化が生まれたのは火で調理できるようになってからだと考えられており、いわゆる狩猟は最近になってはじまったにすぎない。

 肉食が例外的なものにとどまるとしたら、集団で狩りをするために認知能力や言語が発達したという説は前提を失うだろう。認知能力や言語は狩りのためではなく、捕食者から逃げるために発達したという説の方が納得できる。

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