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『小説の準備 ―コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度』 バルト (筑摩書房)

小説の準備 ―コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度

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 講義ノートの三巻目は1978-1979年度と1979-1980年度の二年分をおさめる。最後の二年間の講義は「小説の準備Ⅰ」、「小説の準備Ⅱ」というひとつづきの内容だからである。

 批評家のバルトがなぜ「小説の準備」というテーマを選んだのだろうか。

 バルトは1977年10月25日、最愛の母親を亡くす。極度のマザコンだったバルトは『喪の日記』にあるように悲嘆にくれ絶望の淵をさまよったが、二年目の『<中性>について』の講義の準備によってかろうじて自分を支えたらしい。

 転機となったのは母の少女時代の写真を発見したことだった。幼い母の写真に魂を揺さぶられたバルトは母の思い出を写真論としてまとめることを思いたち、一年余の熟成期間をへて『明るい部屋』を一気呵成に書きあげる。

 読んだ方はおわかりと思うが、『明るい部屋』は知的で冷静な批評の体裁をとりながらも、きわめて内密でプライベートで、内的な熱を感じさせる、なんとも分類のしようのない異様な書き物である。

 『喪の日記』の中でバルトは写真論は母の記念碑にするのだと決意を書いているが、この準備の過程でバルトは小説を書くことを思いついたらしい。

 かくして三年目と四年目の講義は小説を書くという行為の腑分にあてられることになった。バルトは『恋愛のディスクール・断章』で失恋体験を微速度撮影で解剖してみせたが、それと同じことを小説執筆についてやろうとしたのかもしれない。四年目の講義が終了した直後、交通事故で不慮の死を遂げているので、小説は『新生』という題名と数枚のメモができたところで終わったけれども。

 三年目にあたる「小説の準備Ⅰ」は講義ノート三巻の中で一番密度が高い。実際の講義でノートにない余談や脱線があった場合は訳注で補足してあるが、三年目は補足がほとんどない。ノートがそのまま完成された文章になっているのである。『明るい部屋』に向かってエネルギーを高めていく時期にあたるせいだろうか、気合のはいり方が尋常ではない。

 バルトは『神曲』の「人生の道半ば」という詩句に触発されて来し方を次のようにふりかえる。

私は主体の検閲に苦しみすぎた世代に属している:ある場合は実証主義的な道(文学史において要求される客観性、文献学の勝利)によって、ある場合はマルクス主義の道(今ではもはやそう見えないかもしれないが、これは私の人生において重要なものだ)によって→主体性の幻影のほうが、客観性の欺瞞よりはまだいい。主体の想像界のほうが、その検閲よりはまだましである。

 フランスの批評用語で書かれているのでわかりにくいかもしれないが、平たくいえばアイデンティティの一貫性にこだわるのはやめようということである。そして実際、従来の立場を覆すようなことを言いだす。

私は長いあいだ、<書く意志>それ自体というものがあると信じてきた。書くというのは自動詞だと――今ではその確信が薄れている。おそらく、書く意志=何かを書く意志なのだ→<書く意志>+<対象>。

 昔からの読者としては話が違うじゃないかと言いたくなるが、自我も主体性も放りだしたバルトは怖いものなしである。

 では批評から足を洗って小説家に転身するのかというと、記憶力が貧弱なのでそれは無理だと言いだす。長い物語が作れないとなると、どうするのか。方法はある。現在をスケッチすることだ。

 一瞬一瞬の出来事を書きとめた断章をバルトは「偶景」と呼び、それを標題とした本まで上梓している。

(「偶景」は同書の訳者、沢崎浩平の造語で、原語は偶発事やささいな出来事を意味する incident という普通の名詞である。わたしは意をとって「写生文」と訳してもいいのではないかと思うがどうだろう)。

 バルトは偶景の手法を深めるための補助線として俳句を持ちだす。バルトは仏訳した66句の俳句(英訳からバルト自身がフランス語に重訳した句もある)を印刷して受講者に配付し、それをもとに講義を進めている。「小説の準備Ⅰ」の2/3は俳句論にあてられている。

 ヨーロッパの言語に訳された俳句は五七五という韻律が消えてしまうので、もっぱら三行に改行された三行詩として享受されている。志太野坡の「行雲をねてゐてみるや夏座敷」という句はこんな具合になる。

寝転がって

流れる雲を見る

夏の部屋

 バルトは改行で生まれる余白が重要なのだ、東洋の芸術は余白の芸術なのだなどと書いているが、本来の俳句は改行はしないのが普通だ。日本人としては応対に困る。バルトは俳句を論じようとしているのではなく、偶景という手法を深めるためのヒントをもらおうとしているわけだから、これでいいわけだが。

 的外れは的外れでも、おもしろい指摘もある。バルトは季語の重要性を強調した後、俳句の偶然性について語りだす。

俳句とは、主体を取り囲むような仕方で不意に訪れるもの(偶然性、極小のできごと)である――ただし主体はこの束の間の、移ろいゆく取り囲みによてしか存在せず、自らが主体であるとも言えない(個別化≠個人)→したがって、偶然性よりもむしろ、状況について考察すること。……中略……提起されるのは取り囲みだけで、対象は蒸発して状況の中に吸収されてしまう:対象を取り囲むもの、それは一瞬の時である。

 最後の部分ではジョイスのエピファニーとの比較をおこなっているが、こうした飛躍はあくまで偶景という手法を深めるためである。

 さて、四年目の「小説の準備Ⅱ」だが、<書く意志>から<書く力>へたどると宣言するものの、今度はマラルメの書物論の方に話がそれていく。

 マラルメは必然にしたがって構築された究極の「書物」を構想し、「世界は一冊の書物にいたるために作られている」と語ったが、他方で偶然まかせの気ままなつぎはぎでつくられた冊子を「アルバム」と呼んでいる。

 実際に彼が書いたのは折りふしの詩であり時評や雑文だった。彼の文集が必然とは裏腹の<<divagation>>(彷徨、無駄話、戯言)と題されたのは意味深長である。

 バルトは「書物」と「アルバム」はどちらが長持するかと問う。

書物とアルバムのあいだに葛藤があるならば、結局のところ強いのはアルバムのほうであり、残るのはそちらのほうであるということがわかるだろう:……中略……書物はじっさい、残骸に、不安定な廃墟になることを運命づけられている;それは水につけて軟化した角砂糖のようなものだ:ある部分は崩れ落ちるが、別の部分は立ったままで、直立し、結晶になり、純粋に輝きながら残る。

書物のうちで残るもの、それは引用である:つまり他の場所に移送された断章、地形である。

 古代の散逸したテキストは他のテキストに引用されるという形で残るケースが多い。ばらばらに散種された「書物」はもはや「書物」としての全体性を失い、「アルバム」と化す。「アルバム」は偶然的な断片の綴れ織りであるだけに強いのである。

 バルトは『失われた時をもとめて』は周到に構成された「書物」などではなく、断章の寄せあつめである「アルバム」だと指摘し、自分が目指す小説も「アルバム」になるだろうと語る。

 この後、いよいよ執筆行為の分析がはじまると思いきや、仕事部屋や時間割といった周辺的な話にそれていき、中心に位置するはずの執筆行為は空白のまま残される。この講義は『小説の準備』であって、『小説のディスクール・断章』ではなかったのだ。

 小説が書けない理由として、バルトは記憶力の不足の他に嘘が書けないからと語っているが、嘘を書かないと言えば「私小説」ではないか。日本でいう写生文に限りなく近い「偶景」といい、晩年のバルトは日本的な発想に相当影響されていたらしい。

 もっとも、まったく言及していないことからすると「私小説」は知らなかったのではないかと思う。もしバルトが「私小説」を知っていたなら、「私小説」を書いただろうか。どんな理論的展開を見せただろうか。

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