書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ヴァーチャルとは何か?: デジタル時代におけるリアリティ』ピエール・レヴィ(昭和堂)

ヴァーチャルとは何か?: デジタル時代におけるリアリティ

→紀伊國屋書店で購入

「人間の文化のヴァーチャル性」

ヴァーチャルという語は、仮想の、虚像のという意味に使われることが多い。ヴァーチャルな体験とは、実際にぼくたちが生身で経験したわけではないのに、あたかも経験したように感じる体験のことだ。もしも脳にある体験の記憶を移植することができるとしたら、ぼくたちは自分でその記憶の体験をしたと思うことだろう。その意味ではヴァーチャルに対立するのはリアルであるかのように思える。

しかしヴァーチャルという語は著者も指摘するように、イタリア語の徳ヴェルチュの語源でもあるウィルトゥス(力、潜在性)という語からきている。「ヴァーチャルなものは可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」(p.2)ものである。だからヴァーチャルに対立するのはリアルなものではなく、アクチュアルなものである。

リアルなものに対立するのはヴァーチャルなものではなく、可能的なもの(ポシブル)である。ドゥルーズが指摘したように、可能的なものは、「すでに全てが構成されているが、未発の状態にある」(Ibid)ものである。それはリアルなものとして実現されるのを待っているのだ。だからリアルなものと可能的なものがペアとなり、ヴァーチャルなものとアクチュアルなものがペアとして対立する。

そして最初のペアは、実体にかかわるものである。樫の木の種子のうちには、すでに将来の樫の木となるものが可能的な形で存在していて、それが実現されるのを待っているだけだ。第二のペアは出来事にかかわるものであり、ヴァーチャルなものは「存在する」のであり、それが実際の出来事となって「到来」したときに、それはアクチュアルなものとなるのである(一八二ページの対比表を参照されたい)。

アクチュアルなものは、到来した出来事として一回的なものである。その出来事をヴァーチャル化すると、そこにはドゥルーズ的な意味での「脱領土化」が発生する。テクストはいまここにある。そのテクストをヴァーチャル化すると、それはハイパーテクストとなる。貨幣はここにあるものである。それをヴァーチャル化すると電子マネーとなり、為替相場となり、数字だけで決済が行なわれる銀行口座となる。それは脱領土化するだけでなく、「公共性や匿名性への移行、分配と交換の可能性、諸個人間の交渉や力関係の絶え間ない作用」(p.60)となる。

言葉そのものもヴァーチャルなものである。ここにある赤い果実の代わりにぼくたちは林檎という言葉を使う。そして林檎にまつわるさまざまな物語を想起することができる。「情景やストーリー、互いにつなぎ合わされた出来事の完全な系列」(p.89)を思い出すことができるし、まったく新しく作りだすこともできるのだ。そしてその物語を他者と共有することができる。経験することもなしに。言語は現在をヴァーチャルなものにしてしまう。

技術や道具というものは、行為をヴァーチャルなものとする。ハンマーはまだ腕の延長のようにみえるが、車輪はもはや足の延長ではなく、歩くという行為をヴァーチャルなものとして代用する(p.93)。契約というものは、人間が他者にたいして暴力を交渉する代わりに締結されるものだ。個人の間の契約から社会契約にいたるまで、これは現実の暴力の代用となり、現実の「力関係から独立している」(p.96)になる。

これらの三つの要素は人間の定義においても決定的な重要な意味をもつものであるが、どれも個別の事物、行為、関係をヴァーチャルなものとすることで人間の文化というものを可能にしたのである。宗教にもヴァーチャルなものはさまざまにみられるだろう。十字架一つの象徴的な意味、ワインとパンの象徴的な意味はヴァーチャルな要素をきわめて巧みに活用したものだろう。

著者はサッカーにまでヴァーチャル的な意味をみいだそうとする。サッカーをするということは、ある場所であるルールに従って行動することをうけいれ、それに習熟することである。どんな場所でも構わないのに、あるところがゴールとしての意味をもち、あるところがサイドラインの意味をもつ。それらの意味はどれもヴァーチャルなものであり、選手たちはそれを了解した上で行動するのである。

昔マヤ族は敵の首を切り取り、周囲を壁て囲まれた場所で球蹴りに興じたという。著者はこの球蹴りという行為がきわめて宗教的な意味をもつと主張する。それは敵の死者を弔う儀礼であり、その儀礼なしでは、死んだ敵は死を全うすることができないのだ。「遺骸が、集団の客体となる葬式の場に連れてこられず、それがただの事物として、分解する肉が死体としてヴァーチャル化されないならば、それはグループの崩壊、脱人間化の確かな徴である」(p.165)。こうして「ヒヴァロ族の小さくなった頭部は、ボールの奇怪な先駆者の一種ではないだろうか」(Ibid.)ということになるのである。

著者は集団的な知性という観点から、ヴァーチャルなものとアクチュアルなもの、リアルなものとポシブルなものの枠組みをさまざまに変様させ、応用させて思考する。ときに枠組みが人間の三つの技術のように三つの要素で考えられたり、「存在論四学」のように四つの学として考えられたりするような揺れはあるが、思考を刺激してくれる楽しい書物であるのはたしかだ。

なお訳者によると著者は1956年生まれで、ミシェル・セールの指導のもとでソルボンヌで科学史修士号を取得し、カストリアディスの指導をうけてEHESSで社会学の博士号を取得している。1993年からパリ八大学でハイパーメディア学科の教授に就任。現在はカナダのオタワ大学集合的知性研究所の主幹という。いかにもらしい経歴ではある。

主著『集合的知性』も読んでみたい。

【書誌情報】

■ヴァーチャルとは何か?: デジタル時代におけるリアリティ

■ピエール・レヴィ著

■米山優監訳

昭和堂

■2006.3

■207,18p ; 20cm

■原タイトル: Qu'est-ce que le virtuel?

■ISBN 4812206073

■定価 2900円

→紀伊國屋書店で購入