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『シンプルな情熱』アニー・エルノー(ハヤカワepi文庫)

シンプルな情熱

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「自己の被写体化、パッションの外在化」

出たときに読んでとても刺激を受けたが、なにに惹かれたのかうまくことばにできずに無念な思いがした本である。編集者や作家が集まっている場でこの作品の「特別さ」を主張したときも、だれも賛同してくれなかった。ある人は、書いてあることが当たり前すぎると言った。たしかに、著者アニー・エルノーがある男性と恋におちいり、性の虜になったときの意識のありようをフォーカスした内容に、何か新しい発見が込められているわけではなかった。

だが、だれもが知っているはずのことを、このように描こうとしたところに、大きな意味があると、そのときの私は思った。こういう書き方は見たことがない!と心を打たれたのだった。その書き方を「抒情に流れず、冷静に、事細かに記述した」と説明したカバーそでの文章はまちがいではないけれど腑抜けな印象だった。このたび再読してみてはたと閃いたのである。アニー・エルノーは写真と撮るように書いたのだということに。

 

写真を撮るように物を記述するというのは、何も視覚的な描写が多いとか、カメラになりきったように客観的に書いているというようなことではない。それでは前に挙げた、「抒情に流れず、冷静に、事細かに記述する」という言い方と同じ穴のムジナである。「写真を撮るように書く」ことの理念を問題にしなければならない。

 

写真の絶対条件は被写体が必要であるということである。抽象概念でも、感情でも、思想でもない、なにが現実に存在する具体物がなければ撮れない。たとえそれが湯気の粒子のような人の目に確認できないようなものだとしても、実在するものに全面降伏することなくして、写真の行為は成立しないのである。

 

「私」という一人称で語られるが、この「私」は著者のアニー・エルノー自身である。通常の作品では「私」を「著者」と思い込むのはナイーブすぎるが、ことこの作品に限っては「私」は著者とぴたりと重なる。そうでなければ作品の構造が崩れてしまうと言えるほどに、「私」が「著者」自身であることは大きなポイントとなっている。

相手は外国人で妻がおり、「私」からは連絡できない。いつも彼からの連絡を待って家にやってきた彼と性急に交わる。最初の数十ページでは、こういう状況になったときにだれでもが陥る精神的な変化、すなわちつねに電話の音を気にし、その人に関係のある事柄にしか興味をもたなくなる、というような変調がつづられていく。描写は淡々としているものの、内容的には「ハーレクィーン・ロマンス」とあまり差がないが、途中からエルノーが何をしようとしているのかが見えてくる。

「私は、ある愛人関係の経緯を物語っているわけではない。ことの発端から終わりまで(その反面しか私は知らない)を日を明確に追って(「彼が十一月十一日に来た」)、あるいは大まかに追って(「数週間が過ぎた」)、語っているわけではない。私から見て、彼との関係に、時間の経過にそった物語などなかった。なにしろ私の意識には、彼がそこにいるか、いないか、それだけしかなかったのだから。私はもっぱら、「いつも」と「ある日」の間を絶えず揺れ動きながら、ひとつの激しい恋(パッション)のしるしを拾って積み上げる。あたかもそのリストを作成していけば、私みずから、その情熱の実態をつかむことができるように」

「積み上げる」と現在形で書かれていることに注目したい。ここにあるのは、終わった恋を回想するという文学的な動機ではない。現実に対峙するという写真的行為こそが、彼女の求めたものだったのだ。

自分のパッションを分析するのではなく、「単にさらけ出したいのだ」と書く。この「さらけ出す」という表現は、「露出狂」的なパーソナリティーを連想させてしまい、誤解を招くかもしれない。だが、「さらけ出す」ということばの本意は「パッションをとりだして見せる」「外在化させる」ことであり、それを支えるものは、身のうちに起きた現象を受け止め、仔細に観察し記述しようする冷徹な意志なのだ。

ついでに触れておくと、自らの人生について書く者を露出狂と同一視するのは誤りだと述べる。露出狂の願望は見せたその瞬間に見られることだが、書く場合は記したと同時にそれが他者に見られることはない。その猶予期間があるからこそ書くことができると語っている。

男の帰国によって関係は終焉する。彼からの連絡はない。「生きているのも、死んでしまうのも、どうでもよくなった」。そんなある日、二十年前、当時は非合法だった堕胎をした場所を再訪してみたい激しい欲求をおぼえる。そしてその場所に立ったときに、「私は、ある日ここに来たんだ……」と思い、その過ぎ去った現実がフィクションとどんなふうに異なるかについて考えをめぐらせる。

「自分がある日ここに来たということについて抱く疑念、にわかには信じられないというこの感じが特異なのだ。なぜなら、これがもし小説の登場人物のことだったら、私はこんな感じを抱かなかっただろうから」。

 

小説のなかの人物は自分が作りだしたものであり、不変である。だが生命としての自分は流れ変化し、ひとつの体験をまったく同じ視点で眺めることはありえない。重要な箇所である。こういう気づきにこそ、現実との関係によって物を見きわめていこうとする姿勢が表れでているのだから。

 

恋愛体験、それも妻ある人との秘め事が明かされているので、世間はそればかりに気を取られてしまったようだ。カバーのそでには「ル・モンド」をはじめとしてフランスのメディアの反応が書かれているが、「恋の叫びのうちでもっとも感動的なものの一つだ」「激しい恋に陥ると人はどうなるのか」「これまで誰もがつい口ごもってしまっていたことが書かれている」などと、性愛の告白とその内容の赤裸々さだけが強調されている。

だが、エルノーが本書でおこなったことは、もっと高い次元の認識の実験だったのではないか?

最初の数ページに「昨年の九月以降、私は、ある男性を待つことー彼が電話をかけてくるのを、そして家へ訪ねてくるのをまつこと以外、何ひとつしなくなった」とあるが、これに似た状況は恋愛でなくてもあるだろう。誘拐された子供の捜索結果を待つ親とか、意識不明状態にある夫の回復を願う妻なども同様の心理状態に置かれる。人は非日常的な状態に巻き込まれたとき、それまでとはちがう時間の流れを体験する。彼女はそのようなものとして自分のパッションと向き合う。それを現象学者のようにではなく、小説家として綴ったのがこの作品なのだ。

もちろん、性愛を取り上げたゆえの意味と衝撃力は否定できない。冒頭のところで彼女は、ポルノビデオを初めてみた体験について触れ、見慣れてしまえば何ということもないが、初めて見ると動顛すると述べ、このように書く。

「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へむかうべきなのだろうと」。

道徳が絡むゆえに、性愛が連れて行く非日常は複雑怪奇であり、狂気と紙一重なのだ。

あとがきで訳者は、これまでエルノーが雑誌のインタビューなどで語ってきたことばを引用しているが、そのなかに彼女の書く姿勢が端的に表わされていたことばがあったので紹介しよう。

「私にとって書くことは、ある意味で、現実からできるだけ多くの意味を引き出すことです。本には、人々を、その人々の生活から遠ざける本と、その生活へ連れ戻す本があります。私にとっては、これなもう考えて選択するような問題ではありません。私には、人々を彼ら自身に立ち戻らせたい、そういう思いがあるんです。本を読むのは、私にとってはいつも、自分の生活を違う目で見られるように説明してくれる何かを探すことでした」(『ル・ヌーヴォー・ポリティス』1992年4月号)

自分という謎にむかうのと、世界を構成している謎にむかおうのとは、同じことだ。「私」という意識の外に出て行こうとする気持を強く持っているエルノーは、自分自身という謎を解明する道具としてことばを使う。それはことばによって自分を補ぎない強めるのとは逆の、世界にむきあい、受け止めようとする思想なのだ。

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