書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『日本の起源』東島誠・與那覇潤(太田出版)

日本の起源

→紀伊國屋ウェブストアで購入

「「変わらない、変われない日本」のための歴史的思考力」

日本史は、「わたしたちの歴史」だから、かえってややこしい。巷に「歴史好き」はけっこういても、「日本人」であることに誇りが持てる「歴史」だから好き、という人が多いと思う。一方、自分たちのありかたを揺さぶるような「歴史」は忌避されがちだ。それどころか、その手のことを言うと、国を貶めるためだと誤解する人がいる。しかし本当は、この国をよくするためにこそ、今ある日本はなぜこうなったのかを問わねばならない。そのために、歴史に学ぶことは「役に立つ」。無味乾燥な歴史の教科書とも、ストーリーに流れる小説や映像の世界とも離れたところで、たしかな歴史学の知見が積み重ねられていることを、わたしたちはあまりに知らない。気鋭の学者が、今ある日本の「起源」をたずねて、歴史学の最新の成果を惜しげもなく披露してくれる本書『日本の起源』は、海図なき航海を強いられている今の日本で、あらゆる教養人が手にするべき真の「グローバルエリート」養成の書といえる。


日本史を古代から現代まで300ページ以上にわたって語り倒すというこの企画が、どのように生まれたのかは知らないが、本職の歴史学者がそれをやるというのが、大層勇気の要る仕事なのは想像できる。アカデミズムの世界で、専門の枠を越えて何かを言うのは地雷を踏む危険大である。まして日本史となると、古代、中世、近世、近代といった時代区分、あるいは近代なら何年代という単位まで、厳密に専門が分かれているという印象がある。その分野全般について好きなことを言えるのは、功成り名遂げた(もう誰からも文句を言われない)大学者と相場が決まっている。ところが、本書で対談するのは、いまだ三十代前半と四十代半ば、少壮と中堅といったお年頃の准教授と教授。歴史学者同士の対談というのも、一般書ではあまりなかったのではないか。なんとも怖い者知らずの企画である。

那覇潤さんは、2011年の著書『中国化する日本』(文藝春秋)が大出世作となって、いまや歴史界隈だけでなく読書界に広く知られている。近現代の日本を呪縛してきた「西洋化」に代えて、日本史のダイナミズムを「中国化」とその反動(「江戸時代化」)として捉えると、今の日本も様変わりして見えてくる。この今の日本と過去の日本が常に相互反射して問い直されるところに、與那覇さんの歴史語りの真骨頂がある。これが単なる人気取りの珍説ではないのは、その博引傍証ぶり、学術的に手堅い文献案内からも知れよう。旧著『帝国の残影』(NTT出版)では、若いのに小津映画(を含む昔の日本映画)にも詳しいところを見せただけでなく、「日本的」なるもののパラドックスをアイロニカルに描き切って、映画史の人には書けない作品になっていた。今風にソーシャルメディアも活用する與那覇さんの言論は、「歴史好き」と「歴史学」との間の悩ましい距離を埋めるだけでなく、現在を読み解くための歴史の切れ味を教えてくれる。本書は、與那覇さんの知名度で手にとった人が多いだろう。正直にいえば、筆者もその一人だ。

対談相手の東島誠さんのことは、恥ずかしながらほぼ存じ上げなかった。以前『<つながり>の精神史』(講談社現代新書)がちょっと気になったものの、なかなか読めていなかった。ところが、この対談を読むと、東島さんのお仕事にも俄然、興味を惹かれる。「近世篇」で話題に上るが、大震災で注目を浴びた災害ボランティア、それと表裏のように出てくる社会的弱者の「仕分け」(助けるべき相手の線引き)、あるいは「自己責任」といった今日の問題の原点は、すでに十七世紀にあった。それはまさに『<つながり>の精神史』の一章のテーマであって、闊達な自由と公共の精神をともに追い求める「江湖」という日本史上まれなモーメントを軸に歴史を見つめ直す東島さんのまなざしからは、自由な社会の困難と希望が重層的に炙り出されてくる。東島さんの古代史からスタートレックに及ぶ博識、常に史料による用語の裏付けから議論を進める手堅い研究姿勢、與那覇さんの鮮やかに歴史と現在を切り結ぶ(やや勇ましい)発言に対する懐の深いコメントは、あの與那覇さんが私淑し教えを請うにふさわしい先生と納得できるものであった。

本書『日本の起源』は、歴史を行きつ戻りつしながら、今ある日本はなぜこうなのかという問いに繰り返し立ち戻る。「変わらない、変われない」と多くの人が苛立ちを隠さない近頃の日本だが、その「起源」はどこにあるのか。時系列に沿って日本史のできごとを語るというよりも、考えるための問題史になっている。「この国のしくみ」を論じる点では、数ある「日本論」とも重なるところがあるが、それらは必ずしも歴史に裏付けられたものではなかった。本書がすばらしいのは、膨大な学術文献を読み込んでいないと知りえないような研究成果を、ただコンパクトに圧縮して紹介してくれているだけではなく、もっと大きな史論の文脈のなかに位置づけていることだ。対談本はお手軽と批判されることもあるが、このクオリティ、繰り返し立ち戻って考えたくなるヒント満載の本書には当たらない。複雑に絡み合ったいくつもの糸が織り成す日本という絵柄が、意外とすっきりと見えてきたかと思うと、また別の絡まりが見えてきて、エンドレスな思考に誘われる。今ある日本を考えながら、確実に日本史をきちんと学びたくなる。アカデミズムのマーケティングとして、これだけすぐれた試みはなかなかない。

いくつも目から鱗が落ちる論点はあるが、「起源」は知りえないから信じるしかないものではなくて、遡ることができるという点が重要だ。多くの日本人にとって、天皇制の起源を含めて、血筋による継承が歴史的には後から来たものだと言われると、なんとなく虚を突かれるところがある。柳田國男が「家永続の願い」と呼んだような、はるか昔から受け継がれてきたイエやムラという拠り所のイメージ、あるいは近代の幾多の作家や知識人たちが抵抗を試みては回帰していった「日本的」なるものも、たかだか江戸時代あたりにできあがったものかもしれないのに、なんとなく刷り込まれている。システムがつくられてから、最初からそうだったという起源の神話が捏造されること自体は、世界史的に珍しいことではない。日本の場合、何が正統性の根源なのかは曖昧にされたまま、山本七平のいう「空気の支配」が上から下までを縛ってしまう構造が再三生み出されてきた。先の敗戦について言われた「無責任体制」の起源をたどれば、有史以来の日本の統治システムに組み込まれた「二重王権」に見られるような「バッファー構造」、あるいはかつてロラン・バルトが言い当てて数多の日本文化論で変奏される「空虚な中心」に行き着く。戦後民主主義の可能性に賭けた丸山眞男は、執拗に回帰する日本の「古層」と対峙しながら、「自然」に対して「作為」を、「なる」論理に対して「する」論理を対置して見せたが、いまだ日本社会で自覚的に「作為」するのは困難だ。與那覇さんが言うように「自然であるかのように見える秩序を作為して、しかしそれが作為であることを忘れて自然だと思いこむ」という「すごくねじれたことを日本人はやりたがる」のだとすれば、そのような「自然」をいつの間にかつくりあげていた者たちが日本社会の「勝ち組」なのだろう。ところが、そのシステムがずっとうまく回って、その起源が忘却されたころに危機が訪れると、彼ら自身も右往左往することになる。わたしたちが目撃している同時代史にも、そんなところがありそうだ。

歴史は進歩せず、反復する。いくつもの「起源」を見ていくと、日本社会が幾度も根本的な変革の契機をつかみ損ねてきたことに脱力感を覚える人も多いだろう。だが、それも何かちがう。本書のための対談が行われたのは2012年8月、首相官邸前の「反原発」デモが最高潮の盛り上がりを見せていた時期だったという。その後、入念な加筆修正、注釈を施しての刊行となったわけだが、わずか一年でも時代の空気はずいぶん変わった。「ソーシャル」とか「ウェブで政治を動かす」といった言葉が踊った、あの「ポスト3・11」の熱気は、どこへ行ったのか。しかし、一時の「変化」に酔って、再び「安定」の支配に身を委ねるというパターンもまた、歴史上くり返されてきたことだ。日本の何が本当に変わったのか変わっていないのか、歴史から現在を見つめる本書のアプローチは、「一年寝かせて」出したことによって、かえって説得力を増した。

「一年一昔」となってしまうような落ち着きのない時代だからこそ、毎日くるくると変わる政治経済情勢なんかで、かんたんに絶望したりしないで生きていくために、何十年何百年という時間の単位のなかに自分たちの歩みを位置づける、歴史的な思考力がますます必要なのではないか。山崎正和氏は評論集『大停滞の時代を超えて』(中公叢書)で、社会はますます複雑化し人生の時間はますます長くなっているのに、せっかちに何であれ目に見える短期的な「変革」を求めてやまない近代人の「焦燥感」「堪え性のなさ」「変革願望病」がかえって政治的混迷を深め、さらなる「閉塞感」を招いている事態を冷静に見通していた(同書所収「大停滞時代の変革願望症候群」はほぼ一年前の時論だ)。それに対する山崎氏の滋味深い処方箋は同書全体を読んでいただくとして、「世界文明史」という視野でものを考えてきた人ならではの見識だろう。時を経たものを盲信するでもなく、ただ「ぶっっこわす」のでもなく、新たな物語のなかで生き直させること。「伝統文化は現代の創造から生まれる」とは、山崎氏の卓見だが、歴史を語ることも、絶えず現在のなかで行われる営みだ。そこに常に生じるややこしさから目を背けず、歴史とつきあっていかざるをえないのである。

[追記]書き上げたと思ったら、與那覇潤さんの新刊『日本人はなぜ存在するか』(知のトレッキング叢書)が発売された。学生向けの教養科目講義を本にした、いわば日本文化論入門編。自明視しがちな「日本」「日本人」の自意識が、ちょっと歴史を遡るだけで、いかにかんたんに揺さぶられるか。歴史学だけでなく、社会学民俗学などの知見を駆使して、魅力的に語っている。それだけでなく、その先にどのような「かたち」を描くことができるか、考えさせる。まさに新時代の『君たちはどう生きるか』的な教養書として、おすすめできる。また、発売中の「新潮45」11月号には、片山杜秀さんとの小津安二郎生誕110年記念対談が収録されている。こちらも軽妙かつ洞察にあふれていて、必読である。

(営業企画部 野間健司)


→紀伊國屋ウェブストアで購入