『鉄道旅行の歴史-19世紀における空間と時間の工業化』 ヴォルフガング・シヴェルブシュ[著] 加藤二郎[訳] (法政大学出版局)
文化史を名のる本の例に漏れず注が充実して面白いので、そちらを読むうちに、シャルル・ボードレールを「チャールズ・ボードレール」とした表記に繰り返し出合うので、その程度の訳なんだと思った。その通りで本文訳はまずい。かなり直訳体の生硬な訳である。が、読めてしまうのが不思議だし、結構長年の愛読書のひとつである。初めて翻訳で読めたのが1982年。「文化史」とはどういうものか、このアプローチの未来における大きな可能性を学生に示そうにも、これは凄いと思える成功例がなくて困っている時、この本に出遭った。やがて店頭に姿を見なくなってからは重要な文章をコピーして学生たちに配るのが不便で嘆いていたら、今年で11年目となる9出版社共同の名著復刻企画「書物復権」の対象書目として、法政大学出版局から、もう一冊のシヴェルブシュ本(『楽園・味覚・理性』)邦訳とともに再版されたので、喜んでとりあげてみたい。二著とも絶品だ。
初めて邦訳が出た時に「北海道新聞」から書評依頼があり、メインタイトルからして何故ぼくに、と訝しんだ。当時大学で同僚で、知らぬ人ない鉄道マニア、小池滋氏にまわるべき仕事と思った。まして「19世紀における空間と時間の工業化」なる副題をみると、小池氏ですら一寸ちがう位だ。だが、ぼくの興味やアプローチをよく知るつもりだと言い張る書評欄担当記者は、いやいや、先生向きと確信しますがねと仰有る。それで引き受けたのだが、その後のぼくなりに築くはずの文化史の行程を思うに、記者氏の功績や大だ。
兎角面白い。このシラけた題や副題にだまされて手を出さなかった人たちに、兎角読めと改めて勧める。19世紀欧米の文化諸相をひたすらに鉄道網の敷設、汽車とくに客車の工学的特徴など、「鉄道」の一点から次々と説き直していく。着眼点さえ見つかれば百年単位で複雑きわまる「文化」がひょっとして丸ごとわかった気分になれる、おそらくはいずれ「文化史」と呼ばれるであろうアプローチの醍醐味を、いきなりこの本で知ったが、当時それに匹敵し得るべきものとしては、エンゲルハルト・ヴァイグルの『近代の小道具たち』(青土社)があり、避雷針といった工業的な何かを手掛かりに近代文化史の魅力を存分に伝えていた。
ドイツの人文学に何か新しい感覚が芽生えつつあるということを伝えるこの二著は、しかし独立した読み物という限りにおいて「面白い本」という評価を得ただけで、大きな学問的胎動としては見られていなかった。それが2007年の今、ドイツ「メディア革命」というメディア論的学の再編成構想の十年を経て、厖大なアウトプットがはっきり21世紀型の文化史、文化学の一大星雲を形成し始めるのを前に、息呑みつつ、ジンメルやベンヤミンをさらに具体化し、面白い読み物にして媒介してくれたヴァイグルとシヴェルブシュの先駆性に改めて驚き、感謝する。
19世紀が鉄道ブームの一世紀であることを疑う者はいまい。産業革命のシンボル的存在だ。まさしくその産業革命の成果たる「工業」的所産としての蒸気機関車や客車、そしてレール敷設の解明が前半を占める。馬から蒸気機関車へ移る時の問題(今なおエンジンの発動力は「馬力」と呼ばれる)からはじめ、欧と米とでは鉄道文化が実はまるで逆の展開を遂げたということまで、創見の鋭さを印象づけない一章だになし。物からアウラを奪っていく「商品」の構造が、「空間と時間の抹殺」をもたらした鉄道システムになぞらえて翻訳されてみると、こんなにも分かり易いものなのか。あるいは精神的トラウマを言い、その療法をめざすフロイトの臨床心理学が、鉄道事故のもたらす外傷なき神経傷害への研究と表裏だったと言う。こうして19世紀末に社会を見るための二大理論と鉄道がこうも密接に関係していることを諄々と説き明かされてみると、もはや学知そのものが一種マニエリスム的組合せ術とさえ思えてくる。ぼくなど常々、死に体(たい)の現行人文学にマニエリスムをと言い続けてきたが、シヴェルブシュは好個の見本と言える。
が、圧倒的に面白いのは後半である。一つはもともと軍事用語だった「ショック(Schock)」という概念が、自らも間断なく振動をうむ厄介な機械でありながら、伝説的ともいえる緩衝機構のモデルにもなったプルマン・カーをはじめとする、豪華なインテリアでも知られる名作列車の構造を通して語られる部分。直近被弾による発狂(いわゆる「シェル・ショック」)とフロイト理論が第一次大戦を背景につながる、とする辺り、うならされる。
フロイトがノイローゼの性欲原因説を発展させていた満ち足りた平和の時期は、トラウマ概念の心理化と同時に、その概念の空洞化を押し進め、そして本来のトラウマ概念を彼に思い出させて、これに関心を抱かせるためには、世界大戦という現実の外傷的集団体験が必要だったのである。19世紀に、もし鉄道とその事故とがなければ、鉄道性脊柱および外傷性ノイローゼに関するショック理論が考えられなかったように、もし世界大戦がフロイトの体験の背景としてなければ、大量のエネルギーによる刺戟保護の破壊に関するフロイトの理論も、同様に考えられまい。(p.185)
専門書の体裁をとっているから少し専門用語に慣れさえすれば、言っていることはこういう大枠からさまざまなディテールまで、実にほとんど知的手品じみて面白い。
新しい概念間の組合せがうむ面白さ――差し当たり、文化史の魅力と呼べるもの――は、百貨店および現代的な「流通」と、駅、鉄道とのパラレリズムの説明で頂点に達する。
車室から見られるパノラマ的眺めは、物的な速度の結果ばかりでなく、同時にそれは鉄道旅行が質的に新たな装いで商品になったという新たな経済関係の結果として理解すべきものなのだ。鉄道旅行における風景の消失とパノラマ的再生とは、それゆえ構造的に百貨店における商品の使用価値としての姿の消滅に相当する。駅につけられた都市名は、商品に値札を張りつけるのと同じ過程を示すものである。(p.241)
たちまち風景論、パノラマ論、百貨店論に分岐発展させていくことができる重大概念錯綜のマトリックスと言うべき見事なまとめではないか。この「百貨店」および「流通」と題されたごく短い文章(pp.234~245)は、19世紀文化史(Kulturgeschichte)を志す者、その全文をしかと暗誦して然るべき卓絶した霊感に満ちた部分であろう。
そこでも、「百貨店の商品の外見と、鉄道の車室から見られた風景の外観という、この全く異なる二つのものを」結びつけることで全てが始まる。そう、文化史はマニエリスムを対象とするだけではない。自らアルス・コンビナトリア実践と化したマニエリスムそのものだということを、この本は教えてくれる。
ここまでやられると、鉄道文化史はもう先がないかと思っていたところ、David Bell, “Real Time:Accelerating Narrative from Balzac to Zola”(Univ. of Illinois Pr.)が出た。バルザック、スタンダール、デュマ、ゾラにおける馬車、電信、鉄道を、ミッシェル・セールの英語圏における第一弟子を任ずるベル氏らしくさらに熱力学を加えて論じる。仏語圏のテーマを英語でというので、おそらく独文の人たちは知らないはずと思い、老婆心でベル追加といこう。
次は全く似たような流れでスティーヴン・カーンの名作だ。