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『To the Lighthouse』Virginia Woolf(Penguin)

To the Lighthouse

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「ご婦人対おやじ」

 日本でもファンの多いヴァージニア・ウルフ。神経を病み自死を遂げた悲劇の小説家というイメージが強いが、いたずらっぽくておしゃべり好きなところもあった。『灯台へ』は『ダロウェイ夫人』とならんでその代表作。今回、ゆえあって読み返したのだが、筆者はやっぱり『灯台へ』派だ。とても良い。


 ウルフの小説というのはだいたいそうなのだが、この作品、ぷんぷんと匂い立つような雰囲気にあふれている。薄らパステルカラーとでもいうのか、どこを向いても真っ白とか真っ黒というのはなく、何となく色に染まっている。何となく香り立っている。そういう世界はくどくて嫌だ、という人には向かないかもしれないが、でも、そういう世界をいっちょ体験してみっか、という気があるなら、是非手にとってもらいたい。ラララ~とかすかな鼻歌が聞こえてくるような世界だ。(翻訳も御輿哲也訳『灯台へ』(岩波書店)や、伊吹 知勢訳『燈台へ』(みすず書房)などいくつかあるので参考になる。ちなみに『ダロウェイ夫人』の方も、丹治愛氏による最新訳をはじめ数点ある)

 『灯台へ』は、元祖「何も起こらない小説」のひとつだ。灯台へ行くのか。行かないのか。天気はどうだろう。きっと雨だ。何しろスコットランドというところは、快晴の日が一年に2~3日しかない。風が強くて、年がら年中霧が出たり、雨がふったり、陰鬱な天気では世界のトップレベルだ。舞台になっているHebrides(「ヘェッ!ブルディーズ」という感じで発音する)は、ただでさえブリテン島の上の方にあるスコットランドの、さらに上の方にある島々の名称で、名前を聞いただけで「ああ、遠いなあ、寒いなあ、天気が悪そうだなあ」という印象を受ける。

 ラムジー家はここに別荘を持っている。主は哲学者。奥さんは専業主婦。子供が八人。さらに友人やら、風来坊やら、未婚の画家やら、弟子やらが出入りし、ちょっとしたサロンが形成されている。語りは、ラムジー夫人を中心にすえつつも、実際には「主人公」がいるのかいないのかわからないつるつるした身動きの良さで、「灯台へ行くのか行かないのか」と逡巡する登場人物たちの心象風景を描いていく。

 作品は1927年の出版である。ちょうどモダニズムの盛期で、この作品も斬新な実験小説として読まれることが多かった。そのせいもあり、フェミニズムや言語理論などによって、いろいろと理屈をつけられがちだが、硬く考えることはない。土台になっているのはご婦人たちの心の中で展開される、とりとめのない「おしゃべり」なのである。やるのかやらないのか、言うのか言わないのか、ああだこうだとやっているうちに限りなく境界があいまいになる。具体的だった話が急に形而上学に飛躍したり、うっとりと叙情的になったりする。愛すべきラムジー夫人や画家のリリーは、頭の中がつねに「おしゃべり」を遂行しているような人たちで、想像力と連想力と脱線力とがあふれんばかり、あれこれと言葉が言葉を、イメージがイメージを呼ぶ。論理的説明や段階的発展はストーリーの上でもほとんどなく、転換はだいたい唐突に起きるし、人物たちの思考も「思いつき」によることが多い。

 だから油断していると、何の話だかわからなくなる。Sheって誰だっけ?場所はキッチン?あれ、今、夜だっけ?などなど。だいたい小説というのは大船に乗ったような気持ちで読めるはずのものだ。一二行読み飛ばしてしまっても、まあ、大事なことが起きるときにはわかるようになっている。ちょうど野球中継のように。ついつい餃子とビールに注意が行っても、「ああっと、ランナーのタイロン・ウッズが挟まれました。ばかですねえ」とアナウンサーが知らせてくれれば、ちゃんと試合に戻ることができる。

 ところがこの小説ではそもそも実況中継というのがあてにならなくて、しゃべっているのがアナウンサーなのか、登場人物なのかわからないし、いつの間に人物が入れ替わったりもする。ただ、繰り返すが、こうした入れ替わりが難しげに行われているわけではなく、いかにもご婦人の「おしゃべり」にありがちな気安さと、気品と、甘さと、繊細さと、ちょっとした意地悪さに特徴づけられている。単語もやさしい。婦人たちは少し行き詰まると「あらら~」とばかりに感極まって、急に愛のことを語ったり、人生の意味を訝ったりし、そのあげくに投げ出すようにしてイメージを霧散させる。でも、評者が「いいなあ」と思うのはたいていそういう所だ。うわぁーっと伸びをして血がめぐるような、不思議な解放感がある。

 ところでこうしたご婦人の「おしゃべり」と明確なコントラストをなして、この小説のもう一方の極にあるのが、「おやじの思弁」である。「おやじ」とは一家の主で哲学者のラムジー氏。理屈っぽくて、現実的で、自己憐憫的。妙に高尚で、言葉には慎重。詩にはうっとりするよりも、いちいち感動する。偉そうなのだ。いつもつまらなそうにむすっとしているが、たぶん誰よりも長生きするに違いない。とりわけ「おやじ」なのは、空気が読めないところ。ジェームズの灯台行きの希望に冷や水を浴びせ、自分の靴がいかにすばらしい革で作られているかを得々とリリーに説明する。ラストの感動的なシーン、いよいよ灯台に船が到着、というところでは、急に「腹減ったな」とサンドイッチをむしゃむしゃ食べ始める。実に愛すべき「おやじ」なのだ。

 この作品には誰のものともしれない「おしゃべり」が蔓延し、究極の権威としてのこの「おやじ」に対して意地悪に振る舞いつづけるが、でも、最後にはすべてをゆるしているのかなという気もする。わかりあえないけど、まあ、いいかというぐらいの緩さがある。舞台は「ヘェッ!ブリディーズ」だが、実際のモデルはウルフがいつも夏を過ごしたぽかぽか暖かいコーンウォルのセントアイヴズだと聞くと、そうか、とも思う。どきっとするほど悲しいことや、辛いことや恐ろしいことも書かれているのだが、全体を寛大さとぽわぽわした雰囲気とが包んでいるところが洒落ている小説だ。

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