書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『アフロ・ディズニー』菊地成孔・大谷能生(文藝春秋)

アフロ・ディズニー

→紀伊國屋書店で購入

「とんでもなく面白い、20世紀メディア文化論」

 

ともかく、とんでもない本である。20世紀のメディア文化(レコードと映画という視聴覚文化)とは何だったかを改めて考え直そうというのだから、議論のテーマがとんでもないというわけではない。ところが読み始めると、どう考えてもとんでもないのだ。私の予想とは全く違うところで言葉が紡がれて行ってしまう。サックスミュージシャン(菊地成孔)と音楽批評家(大谷能生)のコンビによる慶応大学での特別講義録ということもあって、何らかの理論的体系を順序だてて説明していくというよりも、ジャズの即興演奏のように逸脱や繰り返しをはらみながら、まるで子供が遊んでいるかのように自由に議論が進んでいく。行きつく果ては本人たちもわからないといった感じだ。

 しかし必ずしもそうした語りのフリー・スタイルがとんでもないというだけではない。やはり、その語られている内容もまたとんでもないのである。本書を読むと、私たちにとって自明の風景のように見えているポピュラー音楽や映画文化が、とんでもなく奇怪な相貌を持った文化のように見えてきてしまう。その認識の変容過程が私にはとても痛快で、スリリングだった。

 例えば私たちは、レコードとは音楽を複製可能にしたメディアだと常識的に思う。ところがこの二人は着目点が全く違う。レコード(CD)を聴くときにいったい眼はどこを見ればいいのですかと学生たちに問いかける。めちゃくちゃ可笑しい。私たちはいつの間にかPVに慣れてしまって、あたかも音楽は映像とパッケージ化されていることが普通のように思い込んでいるし、ウォークマン以降、街を歩きながら音楽を聴くことが習慣化している。しかしかつて私たちはステレオセットの前に座って、(目のやり場に困って)ジャケットとにらめっこしながら音楽を聴くしかなかった。

 

 そう説明しながら、彼らは実際に教室でマイルス・デイビスの『マイ・フェイヴァリット・シングス』のジャケットをOHPで拡大してスクリーンに映し出しながら、学生にこのLPを聴かせてみる。このように何も見るものがない状態で音楽を聴くとき、私たちは「視覚情報を切り離し、自分の内面に潜り込んで、その妄想力を勝手に飛躍させる」経験を獲得するはずだ、と。そしてそれを極端に儀式化したリスニング・スタイルとして、ジャズ喫茶のあの神聖な雰囲気があったのだ、と。

 同じように、私たちは映画と言えば、映像と音や音楽がシンクロしている状態で物語を情動的に楽しむのが常識となっているが、しかしその常識も二人は覆してしまう。今度は、そもそも映像と音楽が合っている状態って何なのですかね、と学生たちに問いかける。本当のことを言えば、私たちは映像を見ながら何かを聞くということの意味がわかってないのではないですか、と。そしてグラビア誌『Sabra』の付録DVDのなかの「ビキニ姿のグラヴィアモデルが、胸に万歩計を付けて、笑いながらジャンプしている」映像に、モートン・フェルドマンシュトックハウゼンカーペンターズジャネット・ジャクソンといった多様なジャンルの音楽をかけてみて、どれでも合っていると言えば合っているし、そうでもないと言えばそうでもないでしょう、と笑わせる。実際のところ映画はサイレント映画として発明されたのであるから、音とは関係ない文化のはずだったのだ。むしろサイレント映画を観た人間たちは、聴覚を切り離して世界を眺めることでその妄想力を飛躍させる経験を得ていたはずなのだ、と。

 映像のない音としての「レコード」と音のない映像としての「サイレント映画」。こうした視聴覚経験の人工的分断による、音と映像のそれぞれの濃密な感覚受容から人間は無意識的に何かを妄想してしまうというわけだ(麻薬のように)。その何かを彼らは、「倍音」(正確には下方倍音列)の比喩で捉えようとする。楽譜の表面には現れないような、しかし演奏を通して人間の脳が勝手に聞いてしまう無意識的な音の響きを、彼らは西欧古典音楽の理論が排除してしまった倍音=聴覚的無意識として称揚し、同じように映像のモンタージュによって、そこに写ってないはずのものを人間が無意識的に見てしまう可能性を映画のなかに探求したエイゼンシュテインの理論が肯定的に紹介される。

 

 こうした視覚的・聴覚的無意識に20世紀メディアの文化の可能性を見る二人にとって、敵役として想定されているのが、ディズニーのアニメーションと音楽のプロモーション・ビデオであるのは明白だろう。ただのネズミのマンガに生命感を与えるために、ディズニーは『蒸気船ウィリー』でミッキーに、BGMに合わせて口笛を吹いて、足でリズムを刻ませつつ登場させた。そしてミッキーの動きには、いちいちそれを強調するための音楽的アクセントが付けられた。したがってここではメディア文化の起源における映像と音楽の分断は見事に隠ぺいされ、過剰なまでの両者のシンクロが達成されているのである。すると「『そこで起きていることの総てが、明確なメッセージとして。こちらに理解出来るように発信されている』という強烈な感覚を観客に与える。」(158頁)。だから観客は、アニメーションによって、すべてがわかったかのような幼児的な全能感を得ることができる。私たちはメディア文化によって幼児へと退行しているのである。

 実際21世紀のメディア文化は、こうした幼児的全能感を観客に与えるように、過剰なまでに映像と音をシンクロさせるようなっているだろう(だからポピュラー音楽にはPVがパッケージ化される)。だから私たちにはいつの間にかサイレント映画やレコード音楽のように無意識の妄想力を発揮する力が失われてしまった。それに対して菊地・大谷の二人は、視聴覚のシンクロ状態を分断することによって、人びとが妄想できるような力を取り戻さなければならないと考える。

 

 おっと、学者の悪い癖が出て、二人のもっと多義的で雑駁な話をある価値観によって論理的に整序する作業をいつの間にか初めてしまった。実際には彼ら二人は、レコードとサイレント映画が19世紀のオペラと比べて幼児的であることを強調しているのだから、私のいまの紹介とは微妙に本書の論旨は違っている。むろん、それは彼らのミスと私は思っているから、わざとこんな紹介にしたのだが、それにしても、これでは読者の自由な妄想の余地を狭めてしまうかもしれない。私は急いで撤退することにしよう。だから、ファッションモデルがランウェイの上を歩くときにはBGMのリズムと身体の動きを微妙にずらしているだとか、ブラック・ミュージックは幼児的シンクロを目指してきた20世紀的文化とは対抗して、19世紀的な社交文化としての「ずれ」や「揺らぎ」を目指してきただとか、人間が夢を見るのは日中に知覚した光景を改めて調律するための一種の作曲行為だなどといった、数々の驚くべき卓見に関しては、実際に本書を当たっていただくことにしよう。

 代わって最後に私自身の妄想を一言だけ加えたい。ここではレコードと映画における受け手の妄想可能性が論じられているのだが、書物の場合にもその力はあるのではないか。私はさっき、マイルスのジャケットを眺めて音楽を教室で聞いたという挿話や、グラビアモデルが飛び跳ねている映像にシュトックハウゼンを流したという挿話を紹介した。私はその講義の場にはいなかったが、本書でそれらを読んで声をあげて爆笑してしまった。いやむしろ、こうした挿話は、その場に私たちがいなかったからこそ、ある種の想像力を私たち読者に喚起させるのではないか。つまり教室で経験する以上にそれを記述する文章が面白くなる可能性があるのではないか。そのような読書における妄想力を喚起させるためにこそ、本書はフリージャズ的な語りのスタイルが選ばれているのだと思う。その不思議な読書体験のありように、私は本書の内容と同様の強い魅力を感じた。


→紀伊國屋書店で購入