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『病院で死ぬということ』山崎章郎(文藝春秋)

病院で死ぬということ

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「私たちが好む死のあり方を映し出す鏡」

この本には、医師である著者が病院での死のあり方に疑問を抱き、ホスピスを志すようになる軌跡が綴られています。前半部分には、病院での死を示す典型例がいくつかの物語として収められており、それに対して、後半部分では、家族や医師との心暖まる交流を経て亡くなる人の物語がいくつか配置されています。



私は、折にふれてこの本を読み返すのが好きです。「次の授業でとりあげるから」とか「このブログを書くから」といった口実を得られるのが、実に嬉しいのです。考えてみるに、私がこのような心境になるのは、この本で描かれる死の迎え方と看取り方に私自身が深く魅力を感じているからではないでしょうか。つまり、後半部分で描かれるような死の迎え方を自分もしてみたい、あるいは、前半部分で描かれるような看取りはしたくない、このように思うからこそ、この本の物語たちに引き込まれるのでしょう。そして、この本がベストセラーになったのは、同じような思いを抱く人がたくさんいるからだと考えられます。


例えば、後半部分の物語のひとつに「パニック」があります。患者である60歳の女性は、夫が飲んだくれた挙句に死んだ後も、三人の子どもたちをひとりで育て上げました。しかし、胃癌は彼女に安息の日を与えませんでした。彼女の長男は、病名を伏せて通すことを臨み、「胃潰瘍」だということで手術は行われました。しかし、術後の状態は思わしいものではなく、術後4週目の朝、彼女は「医者を呼んで来い!」「癌なら癌とはっきり言ってくれ!」とパニックを起こします。そして、もはや嘘をつけないと悟った医師(=著者である山崎さん)は、ついに本人に癌であることを告げるのです。


告知した山崎さんは、周囲からいわば「総スカン」の状態になってしまいます。患者の長男は、病名を伏せて通すという自分の意向を無視して告知が行なわれたことに激怒します。そして患者本人も、山崎さんにも看護師にも口をきかなくなります。そうした様子を見た看護師も「先生、やはり言うべきではありませんでしたね」と冷ややかです。山崎さんは次第に、自分がしたことに自信を失くします。


しかし、ここから転機が訪れます。その日の夜に、患者の長男がやってきて「おふくろが家に帰りたいと言っているが、大丈夫ですか」と山崎さんに語りかけます。翌朝の病室でも、彼女はもはや山崎さんを無視したりせず、ポツリポツリと会話をして、「先生、帰れるかね」と聞きます。その日の午後から外泊が行なわれることになりました。山崎さんが彼女の車椅子をワゴン車に載せようとしたその時、彼女は山崎さんの耳元で小さくこう囁きます。「先生、ありがとうね」。茫然としてワゴン車を見送った山崎さんは、胸のしこりが消えていくのを感じます。「昨日からけさまでの、二十四時間の間に吹き荒れた嵐はなんだったのだろうか。あの嵐は、それぞれが、それぞれの港にたどり着くためには避けて通ることのできない試練だったのに違いない」(176ページ)。


この物語で決定的な出来事になっているのは、言うまでもなく「先生、ありがとうね」です。もしこれがなかったら、どうなるでしょうか。山崎さんは「あれでよかったのだろうか」という思いを引きずらなければなりませんし、この物語は「よかったよかった」といえる結末を迎えられません。言い換えれば、死にゆく人に向けたケアが本当にその人にとってよいものなのかを気にかけること(固有性への配慮)と、死にゆく人自身が納得を表明する身振り(「先生、ありがとうね」)とが、われわれが「よかったよかった」と思える死のありかたを支えているのです。(われわれにとっての「良き死」のあり方を支えるこれらの要素の歴史性については、また別の機会に話題にしたいと思います。)


ところで、この本は1993年に同名で映画化されています(残念ながら絶版になりました)。この映画では、原作の中からいくつかの物語がピックアップされオムニバスになっているのですが、その中に「パニック」も入っています。しかし、ずいぶんと描かれ方が違うという印象を私は受けました。その違いを一言でいうと、癌であることを告知してから、患者である女性が納得を表明するまでのドロドロとしたやりとりが一切省かれている、ということです。告知された患者が泣き伏すところまでは原作とほぼ同じですが、映画では、次の場面で患者は早くも「世の中にはもっと辛い人もいるのに、自分だけが何とか楽になりたいなんて、自分勝手な情けない人間になったみたいだよ」と受容を表明するのです。ここでは、原作に描かれていた「嵐」、つまり、患者や長男の怒り、看護師の非難、そして医師の葛藤はすべて省かれています。代わって長男の嫁が相対的に前面に出てきますが(原作では癌であることを告知する場面でたまたまその場に居あわせるだけ)、この登場人物は、かいがいしく姑の世話をして、告知の場面では見えないところで涙を流す人物、つまり感情を抑制する性格付けがなされています。


このような表現の仕方の違いを、みなさんはどのように感じられますでしょうか。私の考えを述べますと、これら対極的な表現は、死にゆく人と死を看取る人との相互行為が私たちの社会においていかに重要であり、またいかに危険をはらむものであるかを示しているように思います。この相互行為は、「先生、ありがとうね」の例でみてきた通り、死の迎え方を「よかったよかった」と思えるようにするには不可欠の部分でありますが、その一方で、人々の否定的な感情が爆発したり、あるいは結末が「よかったよかった」というふうにはならなくなったりする危険も孕みます。片方のタイプの表現はこの不可欠な部分への関心をストレートに表し、両者の相互行為を丹念に容赦なく描こうとしますが、もう片方のタイプの表現は、危険を孕む相互行為をオブラートにくるむようにして抑制し、静かな死を描くことになる――このように私は見ています。


日本におけるホスピス運動の展開を語るうえでは既に古典となった観のある本ですが、私たちの好む死のあり方を鏡のように映し出し、そのことについて深く考えさせるという点で、いまなお意味深い一冊だと思います。


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