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『サド、フーリエ、ロヨラ』 ロラン・バルト (みすず書房)

サド、フーリエ、ロヨラ

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 ちょっと大袈裟なことをいうと、本書はわたしにとって青春の書である。学生時代に読んでガーンとやられてしまい、その後、英訳で読み、気にいったところだけだがフランス語で読み、多くのものを学んだと思っている。

 しかし、青春の書などという割には手抜きをやっていた。本書はサドの『ソドムの百二十日』、フーリエの『愛の新世界』、ロヨラの『霊操』(訳書中では『心霊修行』)を論じているが、そのどれも読んでいなかったのだ。

 読もうにも、当時は邦訳が出ていなかった。厳密にいえば、『ソドム』には澁澤訳があったものの、全体の1/6にすぎず、読んだうちにははいらない。『霊操』にはエンデルレ書店というその方面の出版社から翻訳が出ていたが、「エンデルレ書店」という名前に恐れをなして注文しなかった。

 その後、『ソドム』と『霊操』は入手しやすい形で出版されたが、今年、『愛の新世界』の完訳が出たのを機に、三冊を読んだ上で『サド、フーリエロヨラ』を読み直してみた。

 当たり前の話だが、元の本を読んでいないとわからないということを確認した。

 批評として見ると「サドⅠ」と「フーリエ」はやや強引な印象がなくはなかったが、「ロヨラ」と「サド⅞」はみごとというしかない。ロヨラプロテスタントのバルトの接点は一見なさそうだが、バタイユが論じていたということだし、『旧修辞学』でラテン語のレトリックをとりあげた縁がある。バルトのロヨラ論の核心はレトリック論にあるような気がする。

 バルトは脱皮を繰りかえしていて、1973年の『テクストの快楽』から後期バルトがはじまるとされてきた。

 しかし、1971年の本書の段階で「テキストの快楽」という言葉は出てきているし、「フーリエ」と「サド⅞」はテキストの快楽の実践となっている。

 本書の出た1971年には片想い的日本論である『表徴の帝国』も上梓されている。記号学的バルトから後期の快楽のバルトへの転回には日本体験が決定的だったとする見方があるが、本書はまさに日本体験を反芻していた時期に書かれた。実際、本書には記号学的バルトと快楽のバルトが混在していて、バルトの作品史の上で重要な位置にあるといえるだろう。久々に読み直し、やはりすごい本だと確認できたのは幸福だった。

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