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『ラシーヌ論』 ロラン・バルト (みすず書房)

ラシーヌ論

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 ロラン・バルトの本を一冊あげろといわれたら『ミシュレ』か『ラシーヌ論』を選ぶと思う。どちらを選ぶかはその日の体調による。めげている日は『ミシュレ』、元気のある日は『ラシーヌ論』だ。

 バルトを読みこんでいる人ならどちらも初期作品じゃないか、中期の記号学や後期のテクスト論を無視するのかと反問するだろう。もっともな疑問である。しかし、わたしが一番おもしろいと思うのはヌーヴェル・クリティックの批評家だった頃の初期バルトなのである。

 ヌーヴェル・クリティックといっても、若い人は聞いたこともないだろう。「ヌーヴェル・クリティック」とは「新しい批評」という意味で、今から半世紀近く前、実存主義の流行がおさまった頃、一群の新しい傾向の批評家があらわれ、注目された時代があったのだ。ジャン・ピエール・リシャール、アルベール・ベガン、ジョルジュ・プーレ、ジャン・スタロバンスキ……といっても、今では知る人はすくないだろう。ガストン・バシュラールと初期バルトもヌーヴェル・クリティックの一員と見られていたといえば、かろうじて雰囲気がわかるかもしれない。

 ヌーヴェル・クリティックの影が薄いのは構造主義ブームとポスト構造主義ブームがきびすを接して登場し、たちまち世界的な流行となったからだ。特に日本ではヌーヴェル・クリティックの紹介が著につく前に構造主義ポスト構造主義がはいってきたために、重要な作品が翻訳されずに終わった。ジャン・ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』が訳されたのは一昨年のことだし、最高傑作の『フロベール論』はいまだに訳されていない。

 構造主義ポスト構造主義の思想史的意義は認めるが、文芸批評においては何を残したのか。ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』と『カフカ』は後世に残ると思うが、他はどうだろう。

 さて、『ラシーヌ論』である。この本はヌーヴェル・クリティックが絶頂をむかえた1963年に出版されたが、実証的ラシーヌ研究の権威であるレイモン・ピカールが『新しい批評、あるいは新しいいかさま』という本を書いて全否定したので、バルトは『批評と真実』を書いて応じ、ヌーヴェル・クリティック論争が起きた。論争の勝ち負けをいうのは難しいが、すくなくともジャーナリズム的にはバルトが勝ち、バルトは構造主義の寵児となってフランスを代表する批評家に上りつめていく。

 本書は構造主義に軸足を移す直前の時期に書かれており、精神分析と神話学を援用しながらも、「テーマ批評」の最高の達成となっている。

 邦訳が出るまで実に43年もかかっているが、訳者の渡辺守章氏はこの間、個人訳の『ラシーヌ戯曲全集』を完成させ、演劇集団「円」でラシーヌ劇の演出にあたっている。わたしは「アンドロマック」を見ているが、おもしろかったかどうかはともかくとして、演劇界の最前線にいた頃のバルトの書いた本書を訳す上で、演劇の現場を知っているかどうかが重要なポイントとなるのは間違いない。

 事実、本書はみごとな日本語になっている。バルトの邦訳はテクストの快楽どころかテクストの苦行というしかないものが多いが、本書は確かにテクストの快楽を味わうことができる。

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