『見えない音、聴こえない絵』大竹伸朗(新潮社)
「「衝動」の因って来たるところ」
東京都現代美術館の全館を、子供時代から現在までの作品で埋め尽くした大竹伸朗の「全景」展が開かれたのは、2006年秋。もう2年もたったのかと思う。「なに」と一言でいえない事件に遭遇したような生々しさが未だ残っていて、つい先日のような気がしてならない。
この本は、2004年2月号から2008年10月号まで、文芸誌『新潮』に連載された彼のエッセイをまとめたものだ。連載半ばに「全景」展があったわけで読むほうとしては、そのことを気にしつつ読んでいく。画家にとってどんな出来事だったのかとか、ひと山超えての感想などが書かれているのではないかとか、ついそんな期待してしまうだが、結論を先に言ってしまうと、そんな起承転結的なものは一切出てこないのである。
彼は18歳のころ、北海道別海の牧場で働いていたことがある。「全景」展にあわせてその牧場でも作品展をすることになり、牧場主と隣人が2年かけてサイロを改造して展示小屋を手づくりしてくれた。
作品設置に訪れた彼は、そこでふと思う。
「十八の時、ココで目指した「芸術の場所」とは詰まるところ一体どこだったのだろう、それはどこにあったのだろう」と。
18のときには、倒したい「仮想敵」もいれば、目指したい「場所」もあっただろう。それから30余年たって、都現美の全フロアーを自作で埋めるというそれまでだれにも与えられなかったチャンスを自分のものにし、その意味では「敵」に勝って目指していた「場所」にたどりついたと言える。けれどもそこで浮上したのは、「芸術の場所とは詰まるところ一体どこだったのだろう」という問いだったのだ。
大竹伸朗が、なにをおいても優先させるのは、絵を描きたいという衝動である。それはまちがいない。子供のことに感じ取ったその感覚に固執することに、いわば命をかけている。成長や成熟を拒んでいるのだ。
「作品にコンセプトを求め始めると、どうしても無意識の守りの態度に引きずられる。「今」スパークするその瞬間、自分にとって鍵はいつもソコだ。頭で考える一貫性やスタイルには今でもまったく興味が湧かない」
コンセプトは「容器」のようなものだ。それがあればなにかが溜まっていく感覚が得られる。溜まったものをのぞき見て確認することもできる。貯金が楽しいのと同じ原理がそこにある。でも彼のようにコンセプトを持たずに制作をつづけた場合、どこにそれは溜まっていくのだろうか。容器の役割を果たすものは、何なのだろうか。
おのれの肉体だと思う。生まれ持った肉体のどこかに、それが溜まっていく。でもそれは自分では見ることはできない。テーマやコンセプトのような標識が立ってないから、道をたどるのも無理だ。つぎの作品を創ったときに、溜まったものがひょいと顔を出すかも知れないし出さないかもしれない。
そもそも彼にとって溜まったものを「顕在化」させることが創作の目的ではないのだ。それはあくまでも結果であって、彼が目指すのは衝動にむきあうこと、それが感じられる時間をいかにたくさん持つか、なのである。
ではその衝動はどこからやってくるのか。
その衝動はどう動力化されるのか。
本書で彼がつぶやきのように発している言葉は、すべてその問いにつながってくる。自分の内側と外側との関わりをためつ、すがめつしながら、たとえば「理不尽」という言葉でその関係性を解き明かそうとする。
日常の中で感じる理不尽な力に流されないためには、「理不尽な何か」を持って作品を創りつづけるしかないという言葉のあとに、こう述べる。
「人の感情とも意図ともまた誰かの意志とも異なる何か、いつの時代にも誰かの頭上にもあり続ける名付けえぬ曖昧な透明雲、自分が感知し続けるその雲に押しつぶされないよう、そいつに吹き飛ばされないようバランスを保つ唯一の方法、それが自分にとってモノを創り続けることなのではないか?」
美術の先生は、よくモノを見て描きなさい、と言ったものである。よく見ないといい絵は描けなくて、現にうまく描けてないのもよく見てないせいだと私も信じていた。だが大竹は、こういう絵画の鉄則のようなものも白紙にもどして考える。別海高校美術部のワークショップで彼は、「目隠しコラージュ」なるものをおこなった。印刷物から気に入ったものを切り抜くまでは目を開けたままするが、そのあとは目隠しをしてそれらの素材を貼り付けていくのである。
「見ないと絵はできないのか?」という疑問がずっとあったという。70年代に見たチンパンジーの絵がきっかけだった。その絵に「明確な強さ」を感じて以来、人が「見ること」はそんなに信用できるのか、何をもって絵とするのか、というような問いが湧いてきた。
このくだりを読みながら、チンパンジーの描いた絵を見たときの私自身の衝撃を思い出した。雑誌に掲載されていたのを見たとき、とっさに「これは人間の手が描いたものではない」と思った。作者がチンパンジーだとは、その時点では知らなかった。ただ線の動きや勢いや強弱に、人間ではない者のしぐさを直感し、そう感じた自分の反応にびっくりした。
チンパンジーは腕のつき方も、筋肉の発達具合も、力の量も、生活習慣も人間とは異なる。その別の肉体をもった彼がクレヨンを握れば、人間のそれとはちがうものが生まれるのは当然だ。その秘められた「未知のなにか」に私の肉体は応答した。その絵を見ればだれもがそう感じると思う。
目隠しをしてコラージュするとき、高校生たちは視覚とはちがう感覚を研ぎ澄ませてフル回転させたはずである。実際、彼らの様子を観察していると、ただ闇雲に張り込むのではなく、「見ないで貼る」姿に共通する「秩序」のようなものが感じられたと大竹は言う。それはきっと「これまでとはちがう方法で外界を知覚しようとしている肉体」に共通する何かだったのではないだろうか。
本気でやり続けていてどこまで「わからない」でいられるか、と彼は自らに問いかける。この「わからなさ」とは生命の「わからなさ」と同じなのではないか。
生命科学がどんなに発達しても、自分の生命がいつどのような形で終わるのか、だれも知ることは出来ない。体内で起きていること(いまこの瞬間にからだのどこかで癌細胞が増殖しはじめているかどうか)なんて、どう逆立ちしてもわからないし、自分の五感がいま外界のなにをどう認知し、記憶しているのか、そのなかのなにが意識化され、なにが無意識の領域に押し込まれるかなども、まったくもって謎である。
生命活動はそんな不可解なものがすべて絡み合ってできている。 大竹伸朗が絵を描きつづけることは、どこかそれに似たものがある。