書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『生き方の人類学──実践とは何か?』田辺繁治(講談社)

生き方の人類学──実践とは何か?

→紀伊國屋書店で購入

「ぼくたちは「知」を生きている」

 全部で260ページほど。なんてことない、ごくごくありふれた背格好の新書本だ。だが、「実践」にかんする文献の森で迷子になりかけていたぼくにとっては、この本との出会いは、一葉の地図を手にいれたに等しい。ふつうの新書本なら1時間半もあれば読み終えられる。この本は読みながら何度も立ち止まって考えるから、三日もかかる。そして読み終わるころにはまた最初から読み始めてしまう。そんなふうにして、気がつくと何度も読んでしまっていた。

 メディアを「実践」という地平から捉えなおしてみたい。ぼくはいまそう考えている、と前回書いた。それはいったいどんなことなのか。説明するのは存外ややこしい。そもそも「実践」という言葉からして、やっかいだ。誰にでもわかる言葉でいながら、茫漠としすぎてイメージの掴みにくいところがある(「メディア」という言葉も負けず劣らずやっかいだとおもうのだが、いまは横においておこう)。

 たとえば、「実践」を、ぼくたちの日常的なもののやり方のことだ、とする考え方がある。反復的で慣習的、なかば(あるいはほとんど)無自覚的な行為という含意だ。英語でいうpracticeのニュアンスはこれに近い。一方で、自覚的に現実にかかわっていく態度をともなった行為を「実践」とよぶこともある。自覚的で明示的な意図をともない、現状を変えていこうとする志向性をもった行為。「学問と実践」とか「政治的実践」などといわれるときの「実践」は、こちらのほうの意味だ。日本語で「実践」という言葉がつかわれるときは、むしろ後者のニュアンスが強いかもしれない。

 メディアに即していえば、前者はふだんの日常生活のなかでのぼくたちがさまざまなメディアとかかわっている行為全般をさし、後者の代表例としては、そうしたメディアにたいしてクリティカルに接する態度すなわちメディアリテラシーや、それを養っていくための活動ということになるだろうか。

 これら二つの「実践」理解があるとして、それでは、両者の関係はどうなっているのか。本書によれば、後者はつねに前者から出発する。つまり、いかに自覚的で明確な目的をともなった「実践」であっても、それは社会的に構成された慣習的な「実践」からつながっているのだと指摘するのだ。いいかえれば、ぼくたちは、じぶんの「実践」について、ほんのわずかのことを知っているのと同時に、まったく知ることのない広大な領野をかかえている、というわけだ。

 「実践」についてぼくたちが知っていることを、この本では「実践知」とよぶ。そして、「実践」についてぼくたちが何をどのように知っているのか、二つのモデルを示して教えてくれている。これがなかなか興味深い。

 例にとりあげられるのは、占い師の占いである。第一のモデルでは、占い師は宇宙の人間の関係を示すコスモロジーにしたがって判断をくだす。占い師はコスモロジーの知識とその活用方法を十分に理解したうえで、占いを実践している。このモデルでは、知とその規則は外在しており、ひとはそうした知的資源を操作しているという図式になる。

 第二のモデルは、こうだ。占い師はけっして知識やその用法を理解し操作しているのではない。そうではなく、ただかれが占い師のコミュニティのなかで体得してきたやり方によって占っているにすぎない。別の言い方をすれば、占い師コミュニティのなかで、かれはそうするように慣習のなかで訓練されてきたのだ。これはけっして占いを非科学的だと断じていうのではない。ここで示されているのは、知は外在化できるような(記述可能な)モノではなく、実践を営む生きた身体に宿っている、という視点である。そしてこの第二のモデルこそが「実践知」である、と本書はいう。

 ぼくたちは、知識を操作しているのではなく、知識を生きている。本書のこのフレーズは示唆的だ。占いに限らない。メディアについてだって同様であるはずだ。テレビやケータイや書物が、ぼくたちに直接にメディア経験をもたらしているわけではない。ぼくたちは、メディアを生きているのだ。メディアを情報の送信受信のプロセスととらえる情報伝達主義や(テレビ脳とかゲーム脳もその一種だ)、大ぶりな社会理論のどちらからも少し距離をおいて、「実践」という地平からきめこまかくメディアを考えていくことの出発点は、たぶんそんなことがあるのかもしれない。

 ところで、ここまでの話は本書で田邊繁治が議論しようとしていることの、ほんのとば口でしかない。ページでいえば、ようやく序章の半分にさしかかったところだ。だから本稿は、いわゆる「書評」の体をまったくなしていない。お叱りの向きにはお詫び申しあげるしだいである。

 このあと本書では、ヴィトゲンシュタインからブルデューにいたる「実践」研究のラインを整理したうえで、レイヴとウェンガーの提唱した「実践コミュニティ」論を軸に、田邊自身がフィールドワークによるタイの霊媒コミュニティとエイズ自助グループの分析がおこなわれ、最後に実践コミュニティ概念の有効性と限界が確認されることになる。こうした議論については、機会をあらためて述べることにしよう。


→紀伊國屋書店で購入