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『のりたまと煙突』星野博美(文春文庫)

のりたまと煙突

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 写真家であり作家でもある著者の日常を綴ったエッセイ集。


 「のりたま」とはふりかけにあらず、「のり」と「たま」、二匹の猫の名で、著者の両親の家で飼われており、そこにいたるまでの長い顛末には、星野博美という人のパーソナリティーがたいへんによくあらわれている。信念と実行、そして省察の人。本書から受けた彼女の印象はこうだ。

 『のりたまと煙突』という、心なごむタイトルと、表紙を飾る白猫の写真に惹かれて手にとったはいいが、読みはじめると、熟考に値する案件が山盛りに盛り込まれていて、猫にまつわる本には無条件に反応、猫部分に目が眩んでまったく冷静な判断を下せない私にとって、とてもよい薬であった。

 ある日、散歩をする著者は、隣の市の、日常は使うことのない路線の駅へと向かう。

 都市部周辺に住まい、鉄道の路線図が脳内の地図の基盤となっている人によくあることだが、たとえ家から徒歩圏内にあっても、いつも使う沿線の最寄り駅以外には意識がいかないものである(著者いわく、この「鉄道アイデンティティー」は鉄道各社の料金体系が深く関わっているらしい)。

 その段で著者も、中央線と平行して走る西武新宿線を、自分とはまったく接点がなく、散歩で足をのばした東伏見駅も、はじめて行く場所だと思いこんでいた。ところが、駅前にそびえる東伏見稲荷の鳥居や、咲き乱れる彼岸花をみるにつけ、ある記憶が呼び覚まされた。自分は一度ここへきたことがあった、若くして亡くなった友人が住んでいた場所だと。

 あるいは、近所にある大きな公園。市民の憩いの場であるその広々とした芝生に身を横たえて、いつものように空を眺める著者はふいに違和感をおぼえる。ここは以前、どんな場所だったのだろう。わかったのは、その公園がかつて米軍住宅で、そのまえは中島飛行機の製作所であったこと。さらに、いつも好んで通る遊歩道が、製作所が機能していた当時、ゼロ戦を運びだすための引き込み線の跡だったこと。さらにさらに、母校の国際基督教大学が、中島飛行機の研究所の跡に建てられたのだということ。

 現在見ている風景とは一体何ものなのだろう。それは嘘ではないのだが、丸々真実でもない。あるものは見え、ないものは見えない。まったく当然のことなのだが、そこに大きな落とし穴がある。


 そこにないものは、なかなか見えないのだ。

 住まいにほどちかい通りの電柱にとだえることのない手向け花。いそいでいるとき人身事故で止まる中央線。隣の寺からいつも聞こえてくるお経と鉦の音。亡き祖父や親戚たちの思い出。

 失われたものに目を凝らそうとする著者の日常にしばしばあらわれれる死の痕跡。それは身近な存在のものとはかぎらない。見知らぬ隣人、自分という存在の背後にいる数え切れない祖先たち、かつての戦争で失われた、あるいはいま世界のどこかで戦争によって失われてゆく命。著者の視線の幅広さと奥深さ。

 目に見えるものを追うこと、何かを獲得することにだけ懸命でいられるのは、若い証拠だろうか。歳を問わず失うことへの恐れは誰にでもあるが、「私の何か」だけでない、失われしもの、失われゆくものに思いを馳せるには、ある程度の時間を生きる必要があるだろう……なにやら老いた心境になるが、それも悪くないと思えるのは、失われたものや死の影の色濃いこの本が、星野博美という人の、とてもたしかな生の痕跡となっているためだ。

 長年共に暮らし、著者が猫好きとなるきっかけになった「しろ」、実家に預けた「たま」、大切な二匹の猫も逝く。それをきっかけに、猫の墓に花をよく供えるようになった著者の視界に、それまでは素通りしていた花屋と花が飛び込んでくる。これまでなかった、花のある生活を得た彼女は、猫の墓をまえに思う。

 猫に死後の世界があるとしたら、それは猫だけの世界なのだろうか? それともまた人間と一緒なのだろうか?……


 死んだら、しろやたまと会えるのか? ただそれが知りたいだけなのに、あれこれと考えているうちに、私にはますます宗教というものがわからなくなった。猫が死後どこへ行くのかを示せない宗教なんて信じない。と悪態をつきながら、私は猫の墓に線香を立てる。

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