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『住まいと家族をめぐる物語―男の家、女の家、性別のない部屋』西川祐子(集英社)

住まいと家族をめぐる物語―男の家、女の家、性別のない部屋

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「「部屋」育ちのこれから」

 「日本型近代家族モデルと、その容器としての住まいのモデルの変遷」をたどる本書は、「住むこと」すなわち「生きること」ととらえ、容れものとしての「家」とその中身である「家族」のありかたを相互から照らしだすことによって、日本の近代のありようを問う。


 十四に分けられた章立ては、大学で教鞭をとる著者が、一つの章を半期の講義の一回分の授業に見立てたもので、そこには実際の授業の受講者たちの声も反映されている。 

 授業のなかでくりかえしあげられたのは、近代以降の私たちの住まいと家族のモデルの変遷を示した以下の図式である。

 家族モデルの旧二重構造――「家」家族/「家庭」家族

 住まいモデルの旧二重構造――「いろり端のある家」/「茶の間のある家」

 家族モデルの新二重構造――「家庭」家族/個人

 住まいモデルの新二重構造――「リビングのある家」/「ワンルーム

 家父長制によって支えられ、二代三代にわたる大家族が一同に住まう家と、そこから独立し夫婦とその子どもを一単位とする家庭を築いた者たちの住まう家。戦後、核家族化とともに登場した公団や団地を経て、高度経済成長の終息ののち一般化したLDK式の住宅と、さらにそこから、通学や就職のために家をでた若者たち個人の空間である部屋。このふたつの二重構造をふまえながら、「住まいと家族をめぐる物語」は読み解かれてゆく。

 本書の副題にある「男の家」とは家長、あるいは戸主たる夫・男性が「住まいの管轄者」として機能していた「いろり端のある家」あるいは「茶の間のある家」であり、「女の家」とは高度成長期、不在がちとなった夫にかわり、専業主婦たちがその夢や所有欲をわが家に託すべく「住まいの管轄者」となった「リビングのある家」、のこりの「性別のない部屋」とはまったき個人の空間としての「ワンルーム」となる。

 「男の家、女の家、性別のない部屋」。この副題には、女性史、ジェンダー論を専門とする著者の問題提起のしかたが表現されている。こうしたテーマを設定するにあたって、住宅の問題をあつかう建築史や、家族の問題をあつかう家族論、あるいは近・現代史のあいだをとりもつものとしてあらわれるのは、授業のなかでの受講者たちの声、彼らによる議論やレポートにみられるそれぞれの「住まいと家族をめぐる物語」である。それは、私が私の育った家が「男の家」でも「女の家」でもなかったと感じたように、かならずしも新旧の二重構造にぴたりとあてはまることはない。生きかたの数だけ、住まいかたがある。

 だからこそ、読み手は著者の示した住まいと家族のモデルの新旧の図式に、自らのたどってきた住まいと家族のかたちを照らし、それぞれ「物語」のありかたとその行く末を思いめぐらすことができるだろう。

 この図式でいえば、私は「茶の間のある家」で生まれ育ったといえる。とはいえ両親は共働きで、父はマスオさんのような妻方同居であったので、そこが父親の管轄による「男の家」であったとは思わない。また、高校入学と同時にLDK式の家に転居したが、そこはたとえばニューファミリー世代の両親を持つ友だちの(私の両親は戦中生まれである。どんな住まいと家族のなかで育ったのかは、たとえ同年でも、両親の世代によって変わってくるだろう)、専業主婦である母親の城のような「リビングのある家」=「女の家」のようでは決してなかった。

 のこるは「性別のない部屋」だが、こちらは思い当たるところがある。結婚をして夫とふたりで住みはじめたのは、「男の家」でも「女の家」でもない。それは「男・女」のどちらでもない以前に「家」ではなく、双方の実家の長男と長女の自室が合体したような「部屋」だった。

 まわりを見まわすと、私と同じ世代には、そのような空間で子どもを生み育て、家庭を運営してゆく夫婦が増えてきているように思う。子どもが成長し、一戸建ての家を持つにいたれば、また状況は変わってくるかもしれないし、「夫は仕事・妻は家庭」式の夫婦のばあいなら、そこはかぎりなく「女の家」化するかもしれない。しかし、私たちの世代が家族の容れものとしてつくりだしつつあるのは、かつての「男の家」でもなければ「女の家」でもない、大きな「性別のない部屋」とでもいうような空間である気がするのだが、どうだろう。

 ところで私の育った「茶の間のある家」はかなり変則的な間取りの、なんとも奇妙なおんぼろアパートだったので、物心ついてからは、LDK式のお家にたいそう憧れたものだ。そうした家が商品住宅として一般化したのは一九七五年前後だと本書にはあり、子どものころ、日曜日の新聞に入ってくるマンションや建て売り住宅の広告の間取り図を、自分の部屋はどこがいいかなあ、と飽きずにながめていたことを思い出した。

 そして、そんな子ども時代の憧れとはかけ離れた住環境にいる自分を省みつつ、この先のわが住まいを思い描いてみる。それはまさしく生きかたの問題と繋がっているわけで、なるほど「住むこと」すなわち「生きること」だと、われに返るのである。「部屋」育ちである私たちの世代が、これからどんな「家」をつくりだしてゆくのかは、私自身の問題もふくめて、興味のあるところである。


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