『極東ホテル』鷲尾和彦(赤々舎)
「現代社会の肖像か? それとも人間の普遍的肖像なのか?」
「極東ホテル」という名前のホテルが実在するわけではない。だが、どこかにありそうな気持ちにさせるところが、この写真集のタイトルのうまさだ。時代のズレを感じさせる懐かしさと古くささとが入り交じった響きがある。この先はもう太平洋しかないという、東の果てのぎりぎりにある架空のホテルに引っかかっている旅人たち。その素顔がとらえられている。
実際、この写真が撮られたホテルは、別の名前で東京のイーストサイドの場末に実在する。かつて日雇い労務者たちが吹きだまっていた山谷というエリアである。小さな部屋に蚕棚のようなベッドが並んでいて、仕事を求めて全国から渡ってきて人々が暮らしていた。簡易旅館と呼ばれたその宿が、時代の趨勢で使われなくなると、外国人向けの安ホテルとして営業するところがあらわれ、日本社会の「吹きだまり」が世界各地の旅人の「吹きだまり」となった。
「吹きだまり」と感じさせるのは彼らの表情である。どこの国から来たどういう職業の人かということが外見から読みとれない。国籍、生業、生い立ちなど、その人を社会的存在ならしめる手がかりが脱ぎ捨てられているのだ。おなじ旅人でも観光客ならばもっとそれらしい顔をしているが、彼らにはそうしたフレームワークが見いだせず、ただひとりの個としてたたずんでいる。
帰属していた枠組みを出ると人間の弱さが露呈する。主張も弁護もできない。経済活動にも加われない。いわれのない罪をきせられても抵抗するすべもない。社会の庇護の外側に押しやられた状態のときに人のなかから浮上してくる、繊細であると同時にあやうさを感じさせる表情。
旅をしているのだから、楽しい瞬間だってあるはずなのに、それはほとんどとらえられていないのだ。不安、戸惑い、孤独、寄る辺なさ……。何かを棚上げにして意識が宙づりなっている姿だけにシャッターが切られている。写真家にとって何か痛切なものがそこにあるようだ。
フランス、イタリア、スイス、スペイン、スウェーデン、フランス、ベルギー、オーストラリア……。写っている人のほとんどが西洋人だ。かつて私たちは彼らの国を旅して、ドミトリー式の安宿に泊まり、こういう表情を見せていたのだろう。そしていま、彼らがこちらにやってきて、東京の東側にあるちいさな宿で、おなじようなうつろな顔をして写真におさまっている。それは人間が生来もっているものが旅の時間によってあばきだされるからだろうか。それとも、こうした寄る辺のない表情が世界の肖像のひとつとなってきているのだろうか。
前回に取りあげた「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」にも、行き場のない若者がユートピア思想を実践する書店にたむろするさまが描かれていた。生きにくい時代であるのはたしかだ。だが、社会と折り合いのつかない人はいつの時代にもいるし、生きることに誠実であろうとしてさまようことを求める人も普遍的な存在といえるだろう。写真家は旅人をそのような象徴としてとらえているように思える。彼らを介した自写像のようにも見える。